「神道」が生きのびるために選んだ「変化」とは何か 宗教性の理解につながる「暗さ」や「悲の力」

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しかし本書の対象を「ビジネスエリート」だけに限定するのはもったいないだろう。「神道はどのように生きのびてきたのか」という問いに関心を持つすべての人に推薦したい。

「殺された」と見せかけて生きのびた方法

この問いを前にしたとき、私には忘れられない風景がある。生まれて初めてのフィールドワークで訪ねた奄美群島の喜界島で、保食(ほしょく)神社に行ったときのこと。鳥居の奥に小さな石塔がちょこんと1つ置かれ、その周りが必要以上のコンクリートによって押し固められている。それだけなのである。社殿がないという意味では、沖縄の御嶽や鹿児島のモイドンのような聖地とも通じるかもしれないが、まったく異なる。小さいながら、何かとてつもなく人工的な臭いがするのである。

調べてみると、保食(ほしょく)神社は喜界島に最も多い神社であり、廃仏毀釈の時期に次々と成立している。喜界島では島内唯一の菩提寺が1870年に廃寺にされたが、それによって各集落に点在する馬頭観音も打ち捨てられた。その馬頭観音が保食(ほしょく)神社にとって代わったとする説が存在する。また、保食(ほしょく)神社の石塔は、琉球王国時代に琉球神道の女性祭祀であるノロが祀っていた石塔であり、これを中心に保食(ほしょく)神社が形成されたとする説もある。

つまりここでは、明治維新によって勢いを増した神社神道が、馬頭観音なりノロの祭祀なりをコンクリートで覆うようにして成立した。それによって馬頭観音やノロの祭祀は衰退したものの、現在、喜界島の民俗信仰の中心をなす氏神祭(シマアソビ・八月踊り)において、神社はその中心に置かれていない。氏子のあり方も、ヤマトとは異なっている。

つまり喜界島の神社神道は、民俗信仰や仏教を圧殺するようにして成立したが、その後で独自の展開を遂げて今日に至るというわけである(詳しくは及川高の一連の研究、とくに『「宗教」と「無宗教」の近代南島史―国民国家・学知・民衆』森話社、2016年を参照されたい)。

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