また日本は、日中関係における経済的な観点からの国益の定義と、安全保障上の観点からの脅威認識をどのように結びつけるのであろうか。いうならば、これまで対中戦略が存在しないということこそが、日本の中国に対する基本的な姿勢であったのではないだろうか。言い換えれば、日本がどのような対中戦略であったのかを示すことができる明確な文書を提示することが困難なのだ。
なぜ対中戦略が不在であったのか
それでは、なぜこれまで日本に対中戦略は不在であったのか。それには、以下のようないくつかの理由があるのではないか。
第1の理由は、日本と台湾との関係の複雑さである。戦後の日中関係の基本は、サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日に署名を行った、台湾の中華民国との間の「日華平和条約」を基礎とした中華民国との関係と、1972年9月29日の「日中共同声明」と1978年8月12日署名の「日中平和友好条約」を基礎とした中華人民共和国との関係という、「2つの中国」との関係によって規定されてきた。そしてその大枠は日本が主体的に構築したものというよりも、その時代の米中関係に大きく規定されるものであったのだ。
1951年9月のサンフランシスコ平和条約の締結の際に米英間、さらには日米関係で難しい外交議題となったように、日本は台湾の政府を選択することがいわば既定路線であったのだ。1972年の国交回復以後、北京政府の「1つの中国」という立場を尊重しながらも、日中関係と日台関係をどのように整合させるかという難問に対して、主体的な戦略を提示することが困難であった。
第2の理由は、戦後処理と歴史認識問題である。アメリカやイギリス、フランスのようなほかの主要国とは異なり、日本は戦後の日中関係を、それが台湾の中華民国政府であっても、北京の中華人民共和国政府であっても、戦後処理を最大の外交課題として対応せねばならなかったことである。言うならば、日中間の外交関係の基礎を構築することこそが戦後日本の対中政策の目標であり、そのために膨大な努力が割かれていた。それは平和条約の締結をもって完了することができるというものではなかった。
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