「成長」という概念が成立しないSNS
哲学者の千葉雅也さんは『意味がない無意味』に収録されている2014年のエッセイで、彼が2007年から利用してきたツイッターの変容について、興味深い比喩で語っています。
もともとは思いついたアイデアをなんとなく口にし、相互にやり取りする中で修正を繰り返して作品に仕上げていく「アトリエ」であり「変身」の場がツイッターだったのに、そうした性格が消えていった。むしろ完成しきった自分の思想や政治的な立場をポジション・トークのように披露し、ぶつかり合うだけの硬直した空間になってしまったと。
SNSのおかげで、私たちはそれまで「見る」ことができなかった著名人や市井の人の内面を観察することが可能になったわけですが、それがおかしな方向に作用してはいないでしょうか。
人に「見せる」以上は完成形でなくてはダメで、途中で考えや立場を変えてはいけないんだとするプレッシャーが強まり、老熟はおろか「成長」や「成熟」といった概念さえ、成立しない世の中が生まれているように思います。
ひきこもり治療の専門家である斎藤環さんと議論すると、よく話題に出るのですが、青少年のいじめも、クラス内で定着していた本人のキャラを「変えよう」とした際にいちばんターゲットとして狙われるんだそうです。斎藤さんとはコロナ禍でも一度、Zoomで対談イベントを開きましたが、そのときに懸念されていたのは「SNSで大学デビュー」する近年の新入生の風潮についてでした。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら