社会に向けて発言する精神科医のはしりだった大平健氏が、1995年に刊行した『やさしさの精神病理』というロングセラーがあります。
学生運動が盛んだった70年安保の前後には、ほかの人が抱える傷や苦しみを自分も想像し、互いに積極的に関わっていこうとする気持ちが「やさしさ」と呼ばれたが、その後1990年代までには正反対の、新たに相手を傷つけることを避けようとして内面には踏み込まず、なるべく黙って距離を置きあう予防的な姿勢が「やさしさ」として定着したと指摘しました。
そうした状況でいま、自分の病名を「タグ」にすることには、両義性が伴うでしょう。おそらく本人としては、その病名を検索して「自分も同じです」といった仲間を見つけたい、つまりほかの人との接触を求めてプロフィールに載せている。もちろんそれは、まったく否定されるべきものではありません。
タグだけが「独り歩き」する危うさ
しかしここが視覚偏重社会のわななのですが、目に見える「タグだけ」が本人のアイデンティを代表するように扱われてしまうと、それはむしろ接触回避的にも機能します。
つまり、その人と実際に会って触覚的に感じた印象ではなく、タグになっている用語(たとえば病名)をウィキペディアや書籍で検索し、当人とはまるで関係のない場所の文字のみから得た「知識」だけで、相手のイメージを埋め尽くしてしまう。
むろん病気や障害などの相手の特性を知らずに付き合えば、どこかでぶつかったり傷つけたりしてしまうかもしれません。
しかしそのときに反省したり、許したりすることで深まってゆくはずの相互理解が、「辞書にこう書いてあったから、その通りに接すれば問題ないんでしょ」という形でマニュアル化され、責任回避の論理に転じてしまわないか。一度でも「ネガティブな衝突は起きてはいけない」という、未然防止的なやさしさが煮詰まった現在だからこそ、気をつけなくてはいけないと思います。
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