安保闘争以後も中国側は、日本の国内政治に対する影響力行使を続けた。1978年に日中平和友好条約の締結交渉に臨む際、当時の福田赳夫首相が「本件条約が締結される以上、日中関係は相互に内政干渉に渉る行為を絶対に行わないことを確保する必要がある」という原則を示したのは、当時の空気を如実に物語っている。
今日と違って中国側が大きな影響力を行使できた背景は2つ拳げられる。
第1に、日本国内に中国に対する同情的な世論が広く存在したためである。それは「進歩的」とされた共産主義イデオロギーへの魅力と、中国大陸における過去の戦争で、中国人に甚大な被害をもたらしたことに対する日本人の贖罪意識が入り交じるものであったといえよう。国交正常化前の中国の対日影響力の源泉は、今日でいうところのソフト・パワーに近いものであったといえる。
第2に、日本の政治制度も中国の影響力工作に有利に作用した。1950年代後半から1970年代後半まで、自民党の派閥全盛時代であった。中国と台湾(中華民国)の「2つの中国」問題が自民党内の権力闘争に連動する形で、親中国派と親台湾派との対立が先鋭化した。この時期、中国だけではなく台湾も、自民党に対する影響力工作を行っており、冷戦によって生じた分断国家が、それぞれ自民党の派閥と結びつくクロス・ナショナルな構図が見られたのである。
最終的には目的を達成できなかった
中国の影響力工作は効果的であり、日本国内の世論を分断し、保革対立を激化させることに成功した。しかし、彼らは最終的に目的を達成できなかった。中国側は自民党の1党優位体制を崩すことができず、日本をアメリカから離間させるという目標を達成できなかったのである。
多くの日本人は、隣国中国との和解を望んでいたが、日本の中立化を図ろうとする中国共産党の「日本軍国主義」批判に共鳴しなかった。また中国の影響力工作の主要対象であった革新陣営も、中国政府の対外政策の振れ幅の大きさにしばしば翻弄された。とりわけ、毛沢東の共産中国に希望を抱き、親中国的な言論を展開してきた知識人たちは、中ソ対立と続く文化大革命の前に大きな混乱に陥って分裂した。日本の知識社会が早くに中国への幻滅を経験したことは、その後の中国の影響力工作に対する免疫になったといえよう。
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