結局のところ、1972年に日中国交正常化が実現したのは、中国側の影響力工作の成果というよりも、米中和解の進展という国際情勢の変化によるところが大きかったといえるだろう。
日中国交正常化が実現した後も中国の日本に対する影響力工作は続いた。だが、中国にとっての脅威がアメリカからソ連に移るなかで、徐々に日米離間を目指して革新勢力を支援するような露骨な内政干渉を控えるようになった。
日中関係の安定期
1970年代から1980年代にかけて、中国側が日本に影響力を行使する際に最も重視したのは、田中角栄と大平正芳に連なる自民党の親中国派であった。1972年の日中国交正常化に際して、田中は首相、大平は外相であった。それまでの自民党親中国派が、党内基盤の弱い非主流派であったのとは対照的に、田中や大平は自民党内でも主要派閥の領袖であった。とりわけ、1980年代以降、日本政治における「田中支配(田中が病気で倒れた後は経世会支配)」が確立されるなかで、日中関係はこれまでにない安定期に入った。
1980年代においては、日中両国間で対立が生じるたびに、中国側は、正式な外交ルートと並行して、自民党の派閥領袖との間で水面下の折衝を通じて問題解決を図ろうとした。しかし、特定の人脈に依存したインフォーマルな影響力行使によって、日中関係を安定させられた時期は短かった。
1993年に自民党が下野して55年体制が崩壊し、1996年の衆議院総選挙から小選挙区制が導入されたことによって派閥政治は弱体化し始めた。また統治機構改革によって対外政策における首相官邸の機能が強化されたことも、中国側が頼みにしてきた派閥実力者を通じた影響力行使を難しくした。一方、冷戦終結によって革新勢力が弱体化し、国交正常化以前から活動してきた友好人士も世代交代に成功せず、1990年代後半には徐々に姿を消していった。こうした日本の政治環境の変化のなかで、中国は日本に影響を与える手段を失いつつあったのである。
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