1970年代以降の日中関係において中国側が影響力行使のチャネルとしてもう1つ重視していたのは、日本経済団体連合会(経団連)や経済同友会といった経済団体に代表された財界であった。1970年代末から80年代は、日中両国が経済開発という目的を共有できた幸福な時代であった。1978年に首相に就任した大平正芳は、対中円借款の供与を決定することで、中国の近代化を支援し、それによって中国を西側世界に引きつけようとした。これに対して、文化大革命が終了した中国も、日本を含めた西側先進国の最新設備や技術を導入して経済発展を積極的に目指すようになったのである。
日本国内においても、中国市場の将来性を重視する財界は、日本政府による対中経済協力を積極的に支援した。1989年の天安門事件の後、中国に対する国内世論が悪化するなかでも、財界は訪中団を派遣し、一時停止となっていた対中円借款の再開を政府に働きかけた。中国側もまた財界に働きかけることによって、自国に有利な環境を作り出そうとしてきた。
財界人も融和的姿勢を主張することが難しい空気に
ところが、こうした手法も1990年代後半には通用しなくなった。
まず、経済的相互依存の深まりによって日中関係に関わる企業や利益団体も多様化し、中国側も、従来の大企業から構成される財界に対する影響力行使だけではさまざまな問題に対処できなくなってきた。
さらに日本国民の対中感情が悪化するなかで、中国との経済提携を重視するあまり、日中関係に生じた政治問題を過小評価する財界人への反発も強まってきた。2000年代以降、靖国参拝をめぐる歴史問題や、尖閣諸島をめぐる領土問題が台頭するなかで、財界人の間でも中国を擁護することが難しい空気になっていったのである。
このように戦後日中関係史を振り返ると、中国のシャープ・パワーがなぜ日本では無力なのかが明らかになろう。
冷戦期から中国政府は日本に影響力工作を実施していたが、中国側の手法について多くの日本人が知識や経験を持っていた。さらに1990年代以降、中国政府が日本に影響力を行使するためのチャネルが失われた。冷戦終結による革新勢力の弱体化に加えて、自民党や財界の親中国派も力を失い、中国側が日本に対する働きかけが難しくなったのである。日本が1950年代から中国の影響力工作を受け続けてきた経験は、皮肉にも今日の中国のシャープ・パワーに対する抵抗力になっているといえよう。
(井上正也/慶應義塾大学法学部教授)
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