だが、この「維新の三傑」は決して一枚岩ではなかった。
明治新政府は版籍奉還を成し遂げたあと、さらなる中央集権化に向けて、政治改革が必要だった。その点では3人とも一致している。
だが、大久保と木戸では構想が違っており、意見の違いから2人は対立していた。それだけではない。木戸と西郷との間にもわだかまりがあった。
木戸からすれば、西郷は鹿児島に引っ込んで政府批判ばかりをしてきた。かつ、反政府の士族たちを鎮圧することにも協力的でないように見える。西郷がいつでも中央より鹿児島を第一に考えているのが、木戸には不満だったのだ。
政治改革を断行しようとも、3人ですらこんな状態では、周辺の関係各者を説得することなどできるはずもない。
まずはこの3人でスクラムを組まねばならない。そのためには、いっそのこと説き伏せるのが難しい木戸に権力を集中させてしまい、とりあえず政治改革を進めることを優先しよう。大久保も西郷もそう考えたのである。いつでも「実」をとる大久保らしい思考だといえよう。
木戸孝允の長所は「先見性」
そうと決まれば善は急げと、西郷は板垣退助、井上馨、山縣有朋に相談。木戸の説得に協力を求めている。一方、大久保は岩倉具視にあたって同意を得た。
いったい、木戸はどんな政治家なのだろうか。岩倉が大久保と比較して述べているのが、なかなか面白い。
「木戸は先見あるも、すねて不平を鳴らし、表面に議論をせず、陰に局外の者へ何角と不平恥をなすは木戸の弊なり。大久保は才なし、史記なし、只確乎と動かぬが長所なり」
岩倉も木戸のことを、やや厄介者扱いしている。もっとも、緻密に先を見通す木戸からすれば、どうしても周囲の粗が見えてしまうがゆえに、不平を言いがちだったのだろう。
大久保に対しても「才なし、史記なし」とは辛辣だ。倒幕にあたり、ともに辛酸をなめただけあり、遠慮がない。
それでも、大久保の「決めたら動かない」ところを岩倉は評していた。今回の提案も、大久保ならやってのけると、岩倉は確信していたに違いない。そして木戸の長所である先見性に賭けたといってもよいだろう。
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