中村:どの歌でしょう。
山折:柿本人麻呂の「あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む」という歌です。人を思いやって一晩待って寝る。思いやるという人間関係が背後にある。これが中世になると、親鸞の『歎異抄』の中に出てきます。「弥陀の五劫思惟の願を よくよく案ずれば ひとへに親鸞一人がためなりけり」というところ。阿弥陀の救済力は万人に注がれる力だけれども、よくよく考えると自分一人にだけ注がれているという意味です。信仰告白ですね。
それが近代になると、福沢諭吉の「一身独立して 一国独立す」の独立。あの独立をわれわれはインデペンデンスという英語の翻訳だと思っているし、その通りだろうけれども、「独り立ち」と読んでいたに違いない。そこにもやっぱり「ひとり」が入っています。
日本文化には「一人」の伝統がある
中村:人麻呂の歌から独立へ繋がっていく。驚きました。
山折:そうするとね、日本の文化の中で、個人ということを考える場合、「一人」の伝統を考えることは必要じゃないかと。これをわれわれは戦後やってきていませんよね。大和言葉の復権のためには、一人と個をどう考えるかが、どうしても必要だと思うようになってきました。
中村:大事な御指摘です。その一人は、いわゆる屹立している個というよりは、もうちょっと柔らかく、自然を含んだかかわり合いの中にいる「一人」のような気がします。
山折:だから虫愛づる姫も、虫と対面するときは一人だったと思いますよ。
中村:なるほど。日本人は個が確立していないなどということはないですね。ただ確立の仕方が西洋とは違うだけで。
山折:それは自然とともに一人でいるわけです。
中村:生命科学と生命誌の大きな違いがそこです。科学の場合は客観性を大事にしますから、すべてのものを外から見る。だけど生命誌は、38億年の生命の歴史をずっとたどって来ると、自分もその中にいるのです。
たとえば、「地球に優しく」という言葉は、自分は生態系の外側にいて、「いろいろな生き物に優しくしてやろう」と言っているように聞こえます。本当はそうではなくて、中にいて、「仲間がいろいろいる」と見回すのです。しかも、地震も起きるし危ないのが地球ですね。中にいるわけですから、偉そうなことは言えません。生命誌と生命科学の違いは、中にいて考えるかどうかです。
山折:広大な自然があって、あるいは生命の広大な流れがあって、その外にいてそれを眺めるのと、その中にいる。それは心の中に自然があるか、心の外に自然があるかの違いですよね。これはすごいことです。自然の中の一人、個人という考え方は、西洋人はあまりしないと思います。
中村:客観と言った途端に外から眺めている他人事になる。そうすると勝手なことができます。中にいたらそれはできません。そこで私は、生き物が語る物語を「聞く」と言っています。生き物たちのことを知りたいと思ったら、彼らの語る物語を聞くために、「教えてください」とそっとお願いする。調べてみないと聞こえないこともあるので調べさせていただく。そういう感じです。
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