日本人写真家が記録した"戦場"キエフの10日間 包囲された首都で生きる人々の悲痛な日常

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中心部から北に6キロのキリビスカ通り。爆破されたトローリーバス(写真:筆者撮影)
2月24日に始まったロシア軍のウクライナへの侵攻。国連は民間人の死者が1月で1000人を超えたと発表した。南東部の都市マリウポリでは、住民が避難していた劇場が攻撃を受け、約300人が亡くなったという情報もある。
一方、日本のメディアは多くが首都キエフから撤退し、取材拠点を西部のリビウや隣国に移した。そうした中、キエフに入った日本人写真家が10日間にわたり見聞きした状況を3回にわたって掲載する。
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ロシアによるウクライナへの侵攻から2週間がたった3月9日、キエフに入った。一国の首都が大国の軍隊によって包囲されるという事態にあって、市民はどんな日々を過ごしているのか、知りたいと思ったからだ。

ウクライナの空港は閉鎖されているため、中継地を隣国ルーマニアに決めた。日本から飛行機、長距離列車、シャトルバス、ボランティアの車を乗り継ぎ、49時間かけてキエフに着いた。ルーマニア国境からは直線距離で500キロ近く。東京から盛岡を超える長さだ。西側との「広大な緩衝地帯」として、ロシアがウクライナを重視している意味を感じながらの移動だった。

人影が消えたキエフ中心部

開戦15日目の3月10日、キエフの中心部に向かった。主要な交差点にはバリケードが作られ、兵士が身分証やトランクの中身をチェックしている。黄金に輝く教会やヨーロッパ風の石畳が点在する古都は、戒厳令がしかれ緊張感が漂っていた。

「ここは人通りが多かったよ。公園には家族が集まっていたし。それが2月24日の開戦で一変してしまった」

聖ミハイルの黄金ドーム修道院とウクライナ外務省(左)の前で検問をする兵士(写真:筆者撮影)

ドライバーから説明を聞いているとサイレンのような音が聞こえた。その後、1日平均4〜5回耳にすることになる空襲警報だった。この頃、キエフを目指すロシア軍の部隊は、中心部から北西20キロほどのところと、北東15キロほどのところにまで迫っていた。来週にも中心部を目がけて総攻撃をしかけてくるかもしれない、と不安を口にする人もいた。

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