本当はトモダチなんて1人もいなくていい 平川克美×小田嶋隆「復路の哲学」対談(3)
小田嶋:だいたい、自分の中に相手を侮蔑する気持ちがあるときほど、それを隠すときに過剰な敬語を使いますよね。「障がい者の方がいらっしゃいました」というふうに。「医者の方がいらっしゃいました」と言わないのは「医者が来た」が侮蔑にならないと思っているからです。
平川:言葉って常に両義的で、その都度、その言葉に込められたニュアンスとか、文脈をつかまなければ真意はつかめませんからね。
小田嶋:言葉狩りをする人って、その手間を省きたいんですよ。「ヘアヌード」なんかもそうですが、「毛が見えていたらダメだ」みたいな基準を作ったほうが、取り締まるのが楽ですからね。本当は毛が見えていても健全なものもあれば、毛が見えていなくてもまずいものもある。それは文脈からしか判断できませんが、手間がかかるし、文化的蓄積がなければ文脈を読むということができない。
平川:剃ってりゃいいのかって話だよね(笑)。
小田嶋:そうですよ(笑)。
「息子の合格発表を見に行く親」、どう思う?
小田嶋:平川さんが、ご自分のお父さんを介護された体験を書かれた『俺と似た人』の中で、若い頃、お父さんにとにかく反発していた、ということを書かれていました。平川さんの世代までは、父親との対決というのは明確な主題だったと思います。親父っていうのは息子に対してすごく封建的で、強圧的で、押さえつけようとする。息子のほうも、そういう親父が嫌で嫌でしょうがないから、打ち倒そうとして反発する。
そういう父と子の葛藤がある中で、大人って嫌なものだ、不愉快なものだって思うわけです。で、自分が大人の番になると今度は子どもを抑圧したりするわけですが、とにかくそういう親子の葛藤みたいなものが、原体験としてあった。ところが今は、そういう「父子の対決」みたいなものがほとんど消え去りつつあるのだと思います。たとえば、今の高校生は、大学受験でどこを受けるかを親父に相談するそうですよ。
平川:そうなんだよ。あれ、気持ち悪いんだよね。
小田嶋:「どうしようかな」「○○大はこうだから、こっちにしたらどうだい」っていう会話を親子でするというのは、本当に最近のことですからね。これは実は、『困ってる人』の著者の大野更紗さんから聞いた話です。彼女は東京に来たときに、同世代の人がみんないろんなことを親に相談しているのを知って驚いたらしいんですね。
もちろん彼女は若いから、私たちに比べれば親子の関係はずっとフラットだと思います。ただ、彼女は福島の山奥の生まれで、「親は田舎者で何にも知らないから全部自分でやらなきゃいけない」という意識が強かった。「親とは話が通じないものだ」と思っていたから、都会の大学生が、みんな親といろんなことを話しているのに驚いた、というわけです。
私たちとしては、大野さんの感覚のほうが当たり前のように思ってしまうけれど、そこはかなり変化があるのだと思います。
平川:僕の世代だと、大学の合格発表に親が見に来るなんてありえないことでしたからね。ただ、ずいぶん後になってから、実は僕の父親は、僕の合格発表をこっそり見に来ていた、という話を聞いてね。驚きました。