本当はトモダチなんて1人もいなくていい 平川克美×小田嶋隆「復路の哲学」対談(3)
小田嶋:その「こっそり」というのがおもしろいところだと思うんです。親子の間に上下関係があって、超えがたい距離があったということは、別に子どものことに無関心であることを意味しない。むしろ今よりも強い関心を持っていた可能性すらあると思います。
たとえば私の父親は高等小学校卒ですから「子どもを大学に入れる」ということには、執念に近いような感情を持っていたんだと思います。そのことを決して口には出さなかったけれど、子ども心に親父の「無言の執念」みたいなものを肌で感じて嫌だなあ、と思っていたくらいです。
ただ、それだけ強い思い入れがあっても、私の親の世代だと「子どもの大学受験ごときでいそいそと発表を見に行く」というのは大人として、照れくさかった。そういうことをするのは「大人ではない」と思っていたわけです。
なぜ若者は「仲間」を重んじるのか
小田嶋:私の世代は、平川さんに比べると親子関係はフラットになりつつあったので、合格発表を見に行くときに父親の車で送ってもらいました。でも、決して積極的ではないんですね。「合格発表? しょうがねえな。連れてってやるよ」みたいな雰囲気を出すわけです。今思うと、本当は親父のほうがワクワクしていたんですが。
そして、私自身が親になったときには、自分の子どもの大学受験の合格発表を当たり前のように見に行くようになりました。もう大学に入ることは珍しくもないし、私の父親のように「なんとしても子どもを大学に入れる」という執念を燃やしている人もそれほどいない。ところが、合格発表を見に行くか見に行かないかということでいうと、確実に私たちの世代のほうが見に行くようになった。
平川:それはとってもおもしろい話だよね。
小田嶋:そうですね。つまり、親子関係がフラットになって、抑圧的なものじゃなくなってくるにしたがって、子どもは親に進路相談するようになってきたし、親は子どもの合格発表に足を運ぶようになってきた。でもそれは別に、親子の愛情みたいなこととは、関係ないっていうことなんですよね。
いろんな権威が壊され、さまざまな人間関係がフラット化していく中で、大人がいなくなっていった。そういう社会の中で若い人がどうやってサバイブしているかということで最近感じるのは、若い人が「仲間や友達を非常に大切にする」ということなんです。
たとえば、東日本大震災の後に「絆」という言葉がはやりましたけれど、とにかく仲間、絆、友達、集団というのを大切にする。それを大切にしないやつは人でなしだ、という空気がある。でもそんな価値観が定着したのって、せいぜい80年代以降で、それ以前はほとんど見られないものだった気がします。
平川:確かに、若い人の話を聞いていると、仲間とか友人を非常に大切にする傾向がありますよね。エンターテイメントでも、秋元康さんが仕掛けているAKBに象徴されるように、とにかく大人数で群れる、集団化するというところがスタートラインになっているように感じる。でも、大人になることのスタートラインって「一人立ちする」ということですからね。それは確かに、「大人がいなくなった」こととの符丁がありますね。