倒産後、ケンタッキーで時給600円のアルバイトから再出発しました--秋元征紘・ジャイロ経営塾代表(第2回)

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 主に私の仕事はMJの「ビクトリー・ツアー」を日本で行い、ペプシを活性化することでした。そして当事のペプシの各地域のジェネラルマネージャーやマーケティングディレクターがいちばん神経を注いでいるのは、実はストラテジックプランニングであったのに驚き、経営戦略の大切さと策定の手法を学びましたね。KFCはオペレーション主導のやる気集団でしたが、ペプシは知能・戦略集団。同じ外資でもまったく異なる風土の会社でした。

--2年でまたKFCに戻られています。

部下が私のボスの不正を告発するという事件があり、ちょうどKFCでは日本KFCの東証2部上場とアジア・太平洋地域強化の必要性もあったので、ペプシの人事が私のキャリアに傷がつかないよう配慮してKFCに戻してくれたんです。

KFCに戻った後は戦略担当の常務や1000店舗を超えた営業の統括などを担当して面白かったんですが、上場したあと会社がすこしつまらなく感じるようになりました。たたき上げのオペレーション主導の、ベンチャーのようなアドレナリンが出っぱなしの毎日だったのに、上場して導入された官僚的な経営プロセスの中で、急に組織の活力が失われていくように思えたのです。そして世界的な健康ブームもあり、フライドチキン事業のコンセプトはすでに疲労したと感じてもいました。出店が1000店舗を超え収益効率は落ちるだろうとは思っていましたが、上場の結果一種の大企業病も始まっていたのです。

その頃、ちょうどヘッドハンターからナイキジャパン社長の話が来ました。以前からリーボックやウィルソンから声はかかっていたのですが、ヘッドハンターに「ナイキだったらやるのに」と冗談を言っていたら、「秋元さん、ナイキだったらやるって言ったでしょ」と、本当にナイキからオファーが来たのです。

(撮影:梅谷秀司)

あきもと・ゆきひろ
ジャイロ経営塾代表。1944年生まれ。上智大学経済学部卒業、シドニー大学経済学部修士課程修了。1970年日本精工�入社。ニューヨーク、トロント駐在後、日本ケンタッキー・フライド・チキン�(日本KFC)マーケティング本部長、日本ペプシ・コーラ副社長、日本KFC常務取締役、�ナイキジャパン代表取締役社長、LVMHグループのゲラン�代表取締役社長、取締役会長、ゲランSA(パリ本社)執行役員を歴任。2006年ワイ・エイ・パートナーズ�設立、代表取締役に就任。2008年ジャイロ経営塾を設立。複数の企業の役員・顧問、各地での講演、子供地球基金の理事、六本木男声合唱団倶楽部の団員・幹事など、広範な活動を展開している。

■CEOへの道は、エグゼクティブ向けの人材会社・経営者JP主催のセミナー「トークライブ・経営者の条件」との連動企画です。
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