24歳でプロ野球をクビになった男が見た真実 初めて挫折を味わい、勝負の世界で財産を得た
4年目。私の出場機会は激減した。プロ野球の2軍という場所は特殊な空間である。私もそうであったように、新人選手は無条件で試合に出る機会をもらい、1軍から落ちてきた選手が調整のために試合に出る。結果を残さなければ真っ先にクビになる世代の選手は、試合に出るチャンスが最も少ない。
そんな中、首都圏に点在する2軍の各球場に向かうために、朝早くから1時間以上車を運転し、試合に出る事のないまま、帰路につく。家に着く頃にはちょうど1軍の試合が始まり、テレビをつければ同世代の選手がナイターの照明の下で活躍している。悔しい思いをぶつけようにも、試合に出る事ができない。そんな悶々とした思いを押し殺しながら、次の日も、試合に出られる見込みのない球場へと、朝早くから車を運転していく。
「試合に出られない」という初めての屈辱
そもそも、プロ野球選手は多くの場合、いや、全員と言っていいほど、プロになるまでは「試合に出られない」「控えに回る」という経験をしていない。そうあることには非常に抵抗があるし、反発も起こる。しかし、どこかのタイミングで受け入れなければならない。
当時22歳だった私にとって、それを受け入れる事は負けを認めることと同じような気がして、できなかった。ひたすら反発し、わかりやすく気持ちの切れた私は、一気に低迷した。半ば自暴自棄に陥り、信用も失い、人も離れていった。このあたりから、私の「プロ野球で活躍する」という情熱が、一気に冷めていったことを今でも覚えている。
5年目。それでもクビにならなかった私は、心を入れ替えてやり直す決心をした。何があっても諦めないと心に誓ったが、一度気持ちの切れた人間が簡単に結果を出せるほど、プロの世界は甘くない。一度悪い方向に向かったエネルギーには慣性の法則が働き、さらに深い闇へと転落していった。この年の打率が.214。2年で打率を1割近く下げた。私のプロ入り後の打率の推移をグラフにしたとすれば、恐ろしく急な山が1つ出来上がるだろう。
ところで、在京球団の2軍選手の生活は、想像以上に厳しい。当時の私の年俸が560万円。月の手取りが40万円ほど。ほぼ毎日自分の車で試合会場へ向かうため、交通費は月に10万円かかる。プロ野球選手は個人事業主なので、球団からの交通費の支給はわずか。ほぼ、ないといってもよい。家賃、光熱費、携帯電話料金、各種保険などの支払いを終え、食費を考えると、月に自由に使えるお金は5万円ほどだった。
世間一般でイメージされているプロ野球選手の華やかな生活とは無縁である。そんな日々から抜け出そうと必死になるのだが、そもそも試合に出られない。これは、なかなかに辛い日々である。