だからこそ、AKB48のシステムは、グループはプラットフォームとなり、ギャンブル的な「アイドル作り」のリスクを個々のメンバーに還元し、それによってAKB48というグループ自体はこうしたリスクをなるべく負わない戦略を採っています。それは極めて賢い戦略です。いえいえ、ハロプロも含め、むしろ何らかの形で安定的に魅力を生み出す経営メカニズムを進化させることが、現代のアイドルの工夫でもあったはずです。
しかし、そうした進化に背を向けたことが、むしろももクロの特徴とも言えます。メンバーもスタッフも、あえてこのリスクがある「アイドル作り」に、愚鈍に真正面から取り組んだわけです。そしてその結果、ももクロというコンテンツは虚(演じられる人工物であるキャラ)と実(演じているメンバーの個性)がない交ぜに紡ぎ上げられた優れたリアリティドラマに昇華させることに成功しました。その成果であるももクロという「存在」の求心力こそが、ももクロの魅力である濃厚なドラマツルギーを可能にしているわけです。これはまさに奇跡的な事業といえます。
ももクロの“核心”~疑似恋愛を超えて
こうして見ると、ももクロの特長として浮かび上がるのは、「ももクロというチームそのもののコンテンツとしての面白さ」と「ももクロの応援で頑張れるファン」という構図です。これは、1970~1980年代のアイドル時代を経験した者としてはちょっと気になるところです。
というのも、本来、アイドルにはどこかしら「疑似恋愛」のにおいがあるものだからです。だからこそ、男性ファンは女性アイドルのことばかり考えていましたし、女性ファンは男性アイドルを見ていました。しかし、ももクロにおける「女性性」はどこかしら単なる「ネタ」であり、男性ファンは「女性性」には拘泥していません。別の言い方をすれば、ももクロは、男性ファンが女性ファンと一緒にメンバーのキャラ性と人間性の魅力に浸り、語り合える対象なのです。
ももクロ楽曲、その傾向とは?
これはももクロの楽曲にも傾向として現れており、ももクロの楽曲にはかなり恋愛要素が少ない。いえ、恋愛をモチーフにした歌も多くあるのですが、恋愛そのものというより、恋愛を通して、懸命に相手を思うというその懸命さそのものに焦点が当てられていくのです。このベクトルは、孤独感に閉じこもる心を蹴り飛ばして共に前に進もうと語りかける「DNA狂詩曲」や、口だけの上司なんて放っておいて自分自身が輝くためにこそ働こうと歌う「労働讃歌」や、強がらないで泣きながら、でもどんな幻滅も泣きながら乗り越えていこうと歌いかける「泣いてもいいんだよ」など、まったく恋愛とは縁もゆかりもない楽曲と組み合わさり、ももクロの核心とも言える「どんな苦境でもつねに全力で頑張ることを放棄しない」姿勢の鼓舞に集約されていきます。そんな言葉は、むしろ20代のときよりも、歳を経た今だからこそ胸に響くものがあります。そう、ももクロの楽曲は、アイドルの体裁をとりながら、かつて酒場における演歌やフォークソングが果たしていた役割を、現代のオジサンや若者たちに向けて果たしている、とも言えるでしょう。
このことは、ももクロ自身にも認識されています。2014年3月の国立競技場ライブにおいて、リーダーの百田は「みんなに笑顔を届けるという部分で天下を取りたい」と宣言しています。笑顔を届ける、ファンを元気にする、そのために、ももクロはつねにファンの前では全力で自分を燃やす、「全力少女」であり続けようとするわけです。
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