野村克也がシダックス時代に果たした強烈な凱旋 彼らを奮起し無様な過去に自ら落とし前をつけた

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4試合で失点わずか1。2月から繰り返されてきた試合後のミーティングの積み重ねもあって、野村の目指す守り勝つ野球は着実にチームへと浸透していた。

エース・野間口の進化も止まらなかった。2勝を挙げてMVPを獲得。ネット裏に陣取ったプロのスカウトたちは、野間口のドラフト指名が解禁となる2004年に向けて「来年の目玉になるのは間違いない」と太鼓判を押していた。

野村は上機嫌だった。「優勝」という名の栄冠を手にするのは1997年10月23日、ヤクルト監督として西武を下し日本一を果たして以来、6年ぶりだったからだ。

「オイ、アマチュア野球は胴上げしないのか?」

マネジャーの梅沢が「胴上げは都市対抗で代表切符を手にした時までとっておきましょう」と伝えると、「それじゃあ、減量しとかなきゃ。彼らは胴上げに慣れてないからな。今度は、大きな名誉を目指します」と破顔一笑でまくしたてた。

私は野村の幸せそうな表情を思い出しながら、長良川球場の記者席でたっぷりと「優勝原稿」を書いたことを覚えている。

19年後に知った当時の衝撃事実

だから19年が経った今、梅沢の証言に驚いた。

野村はあの時、体調を崩していたのだ。

「岐阜に入る前に、大阪だったかな。監督は講演の仕事が入っていたんです。その講演先から電話がかかってきて『俺、風邪ひいちゃって。これから点滴を打ってくる。それが終わったら新幹線でそっちに向かうから』って。岐阜羽島の駅へ迎えに行ったんですが、その時には体調が悪そうな感じは見せませんでした。本人はつらかったかもしれません。でもチームや選手にはそういう姿を一切見せないんです。だから私も選手には伝えませんでした。そんな中での優勝でしたから、やっぱり凄いお方だなって」

このベーブルース杯から野村シダックスの破竹の快進撃が始まる。

梅沢は続けた。

「4月25日から都市対抗の代表決定戦まで、オープン戦も含めて24勝1敗です。公式戦からオープン戦、試合という試合に全て勝っていました。結果がついてくるにつれて、選手も『俺たちはあの野村監督に教わっている』という自信がみなぎってきた。相手チームも『野村監督は何をしてくるか分からない』といたずらに恐れていたかもしれません」

また、野村は大の負けず嫌いでもあった。そんな性格も快進撃の裏側にあったと明かすのは、投手コーチだった萩原だ。

「監督はオープン戦でも練習試合でも『勝ちたい人』でした。負けたくない、と」

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