元「新聞奨学生」62歳が語る"若者への申し訳なさ" かつて日本はもっと「若者に投資する国」だった

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さて、西村さんの話に戻ろう。

新聞奨学生は労働と引き換えに、授業料を代わりに出してもらう制度だ。寮生活だったので、住む場所も困らない。新聞奨学生として過ごしたのは3年生になる直前までの2年間で、その日々は非常に忙しかったという。

「部活動やサークル活動など、大学生らしいことはまったくできませんでしたね。起きるのは2時~3時頃で、そこから新聞に折り込みチラシを入れる仕事があって、配達するんです。

配達後に急いで食事を済ませたら、すぐに大学へ。講義が終わって帰ってくると、今度は拡販(定期購読の訪問勧誘)のセールス。そこから戻って、次の日の新聞の折り込みの準備……とかなり忙しいんです。だから、そもそも新聞奨学生は部活動禁止なんですよ。

講義中はすごく眠くて、寝ないために一番前の席に毎回座るのですが、それでも結局寝ちゃうことが多かったですね(笑)」

しかし、振り返るとこの日々は、西村さんに多くの出会いを与えてくれることになる。

「新聞で集金やセールスに行って、いろんな人と話ができたのはいい経験でした。私の担当エリアは繁華街だったので、飲み屋のお姉さんたちは、私が大学生だとわかると『大変ね。だったら、3カ月分取ってあげるよ』などと言ってくれるんです。

ほかにも、訪問先のおばあさんの長話に付き合ううちに、気に入ってもらえたのか『日本舞踊を教えてあげよう』と言われたこともありました。結局時間がなくて叶いませんでしたが、たくさんの人とお喋りできて、いろんな人生模様を垣間見れたのは貴重な経験になりました」

その後、3年生になると学業が忙しくなり、新聞奨学生は辞めることになった。しかし、授業料を負担に感じることはなかったという。

「夏休みに肉体労働のアルバイトをすれば、当時でも1日1万円ぐらいは稼げました。だから、授業料を負担に感じたことはなかったです。もちろん当時でも私立大学の学費はもっと高かったのですが、当時の国立の授業料は本当に安かったんですよね。

あと、奨学生を辞めてから学部の文化祭の実行委員長をやったのですが、そこで友達もたくさんできて楽しかったですね」

時はバブル、給料は右肩上がり

さて、ここからは、バブル時代を経験した西村さんによる、今とは大きく違う働き方の話だ。西村さんは大学を卒業後、コンピューター関係の会社に入社した。1982年頃の話だ。

「当時は残業代が基本給より多いという時代です。80〜100時間残業するのは普通で、今はもう言いませんが、『半ドン』という文化もありました。土曜日は正午までが正規の就業時間で、半分のドンタク(休日)があるので半ドンです。

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