「推しのいる人生」が幸せである予防医学的な根拠 推しは人生にウェルビーイングをくれる存在だ

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何かを「する」ために集まると、私たちはすぐに「あいつはいつまで経っても使えない」「最近入社してきたあの人は意外と使える」という見方で相手をジャッジしてしまいがちです。

けれども「いる」から始まったメンバーであれば、その人の替えが利かないことが何よりも大事なのであって、演奏の腕はさして重要ではありません。その人として存在してくれたらそれでいい。ファンはきっとそんな思いでステージを見るはずです。

これは芸人さんの世界でも同じでしょう。吉本新喜劇のベテラン芸人さんたちの中には、いつ登場しても同じことしかしない。けれどもいるだけで存在感があるし、お客に喜ばれる。そういった域に達している芸人さんは少なくありません。噺家も同様。年老いて声が聞き取りにくくなっても、芸がグダグダになっても、それでも愛され、記憶に残るのです。

愚者を責めない寛容さ

日本のフィクションでは昔から、許しと寛容が繰り返し描かれてきました。

落語で間抜けなことをする役回りの与太郎は、どれだけ周囲に迷惑をかけ、騒動を引き起こしても「しょうがねえなあ」とすぐに許されるのが常です。愚者を責めない文化・風土は、かつての日本には確かにあったのでしょう。

落語も一種の日本昔話ですが、長く愛されてきた噺はどれも「寛容」を説く物語が多い。能力が低い人間って、ともすれば集団生活においては排除されてしまいますよね。「迷惑をかけるな」と疎まれがちですが、落語の世界では能力が低いからといって酷い目に遭ったり、糾弾されたりするような展開はあまり見当たらない。寛容と許しの世界だな、としみじみ思います。(吉田氏)

愚かな行為をした人をさげすみ、疎み、排除する。そうすることで一時的な安堵を得る人も多いでしょう。けれどもその先には殺伐とした世界しかありません。

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