今度は宮崎「餃子日本一」あちこちに誕生するなぜ 日本中で餃子が愛されるようになった理由5つ

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一方、小麦はアメリカからの支援物資として豊富にあった。そして1954年、アメリカは西側諸国が小麦を好条件で購入できるPL480法を成立させる。アメリカはこの頃、生産量が急拡大した余剰小麦の売り先を求めており、あわせて冷戦下の守りを固めようともくろんだのである。

その結果、日本でパン食が伸びたことはよく知られているし、安藤百福はパンより麺だ、とインスタントラーメンの販売を始めた。そして町中華も増えた。当然、小麦粉を使う餃子の販売増加にも結びついただろう。つまり、餃子が広まった1つ目の理由は、小麦粉の供給が潤沢だったこと。

餃子トップ3の市がいずれも戦後、中国や満州からの帰国者が売り始めて広がっているところが、通説を裏付ける。

戦後の東京でも「餃子ブーム」があった

戦後の東京でも、餃子ブームが起きていた。戦中戦後を代表するコメディアンでグルメだった古川緑波が『ロッパ食談 完全版』で、餃子屋が渋谷や新宿に次々とできたことを記している。

定番の洋食・中華の発祥を発掘した『オムライスの秘密 メロンパンの謎 人気メニュー誕生物語』(澁川祐子)は、渋谷・百軒店で1948年に「有楽」として開業し、1952年に恋文横丁に移転し「珉珉羊肉館(ミンミンヤンローカン)」と名前を変えた店の歴史を紹介している。

大連から引き揚げてきた高橋通博が開業し、人気メニューとなったのが焼き餃子だった。『中国料理と近現代日本』によると、同店ではパンチを効かせるためにニンニクを使用している。百軒店には餃子店が続々と開業していく。

『程さんの台湾料理店』(程一彦)によると、高橋氏は現地で中国人女性と結婚していて、戦後はまず、高橋氏の故郷である大分県宇佐市に身を寄せる。高橋夫妻に台所を貸した友人で水墨画の画家、古田やすおがその後、東京に行った折に高橋夫妻を訪ねたところ、珉珉羊肉館が好調なのを見て餃子の作り方を習い、大阪で餃子店を出す。実は日本料理店を始めていたのだが、うまくいっていなかった。この餃子店が、チェーン店の珉珉の始まりである。

このように、大陸からの帰国者により、焼き餃子が全国各地に広がり定着したことが、2つ目の理由だ。しかし、餃子は、戦前から日本に入ってきている。

『オムライスの秘密 メロンパンの謎』によると、料理雑誌の『料理の友』1933年3月号に、神田今川小路「北京亭」が数少ない店として紹介されている。同書は、満州国が建国された頃から餃子を紹介する料理書が増えたと指摘する。

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