1918年にアゼルバイジャンもアルメニアも、「ザカフカース共和国」として成立した。しかしアゼルバイジャンはイギリス軍によって1918年8月に占領されてボリシェビキのメンバーが虐殺された。やがてイギリスが去るとボリシェビキが再来し、民族主義者が虐殺された。同様のことはアルメニアでも起こり、最終的に1920年にすべてソ連の共和国として併合される。この間に起きた殺戮の嵐が、今でも虐殺事件としてそれぞれの国で蒸し返され、反ロシア、反アゼルバイジャン、反アルメニアの意識形成に寄与しているのだ。
結局、ボリシェビキの民族政策はツァー体制の大ロシア主義が形を変えただけのものになってしまったともいえる。同じヨーロッパ系ロシア人でもあるウクライナ人ですら、大ロシア主義の犠牲としてシベリアへの追放移転などの粛清を強いられたのだが、それ以外のイスラム圏、アジア圏の共和国での粛清と圧政は想像を超えるものだった。
旧ソ連邦構成国を自由にさせたくないプーチン
こうした問題は、今では「オリエンタリズム」という言葉で述べられる場合が多い。ロシアのマルクス主義自体が、オリエンタリズムの1つであったのではないかという問題である。カルパナ・サーヘニーが『ロシアのオリエンタリズム』(袴田茂樹監修、松井秀和訳、柏書房、2000年)という書物を書いている。
著者のサーヘニーによると、ロシアは西欧へのコンプレックスをアジアへの蔑視という形で昇華したというのである。こう考えると、ウクライナやポーランドに対するロシアの考えは、むしろヨーロッパに対するコンプレックスそのものであるともいえる。
EUの拡大やNATO(北大西洋条約機構)の拡大は、ロシアにとってある意味ヨーロッパへの完全敗北、すなわち屈辱を意味する。だからこそ、少しでもロシアは自らの力を西側に誇示したい。それがロシア人にとって、ロシアの一部だとも考えられるウクライナへの軍事侵攻となって現れたともいえる。しかし、結果的にそれが一層、ロシアのヨーロッパへのコンプレックスを浮き立たせることになっているのである。
他方、コーカサスや中央アジアに対するロシアの締め付けは、ヨーロッパとしてのロシアの優位性を、彼らに与えているようにも見える。しかしこのヨーロッパの優位が、ソ連時代のマルクス主義や社会主義というヨーロッパの輸入思想によって進んだとすれば、西欧マルクス主義とソ連のそれとが比較されたとき、その内容の空虚さが際立つことになる。それによって、さらにまたロシア人のコンプレックスが拡大することにもなりかねない。日本を含むアジアの共産主義者に強いた、あのソ連共産党のマルクス主義の傲慢さと硬直性は、西欧マルクス主義に対するコンプレックスの裏返しといえる。
ソ連崩壊から30年、ソ連を構成していた共和国はそれぞれの道を歩んでいるのだが、ロシアはそれを決して許そうとしない。まるでそれらの国は、今でもロシアを構成する共和国の一部だと言っているようだ。ツァーもソ連共産党も、そしてプーチンも、かつてのソ連邦構成国には自由な道を歩ませる気がないようである。ツァー体制が安易な西欧主義、ソ連共産党体制が西欧マルクス主義の亜流だったとすれば、プーチンはロシアに従属すべき国々に何を与えるのだろうか。それがなければ、ロシアについていくものは、もはやいなくなるだろう。
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