結局、マルクス主義が抱えた難問は、「労働運動は民族主義とどう折り合いをつけるのか」というものだった。民族を超えて人間一般、プロレタリア一般として労働運動が成立するのか、そうでないのか。もし民族運動が存在すれば、それは労働運動を阻害するのか、そうでないのか。
これはひどい悩みでもあった。現に、第1次世界大戦でフランスの労働者とドイツの労働者はお互いにいがみ合い、戦争へと突き進んでいった。結果として労働者、すなわちプロレタリアとしての友愛より、民族の友愛が勝利した。だとしたら、マルクス主義は民族主義に凌駕されたということになる。
民族国家と植民地での運動の矛盾
しかも複雑なのは、民族国家がロシアのツァー体制のような中央集権的で抑圧的な国家の場合、ロシアの労働者はロシア民族を優先すべきか、それとも抑圧されている被支配民族を支持すべきなのかという問題にぶつかる。まして、西欧の植民地として支配されているアジアやアフリカなどの地域では、それらの地域のマルクス主義者たちは、彼らを支配する国であるフランスやドイツのマルクス主義者とどういう関係に立つのかという問題が出てくる。
この複雑な問題は、マルクス主義理論に2つの大きな流れをつくりだす。1つは、プロレタリアは彼らと同様に搾取されている点において、被支配民族と同感し、民族の壁を乗り越えて共通の戦線を組むことができるという考えだ。もう1つは、個々の被支配民族の独立運動を支援し、共通の敵を支配民族ではなく、支配階級であるブルジョワ国家体制と置き、共同戦線を張るという考えである。
当然ながら、後者のような考えはドイツやフランスではその地に被支配民族を抱えていない点で理解しにくい。しかし、支配民族に支配されている東欧地域では後者の考えのほうが理解できる。だから、ドイツ社会民主党のマルクス主義民族論とロシアのボリシェビキのそれが真っ向から対立することになったのだ。
レーニンは、ボリシェビキの革命闘争と民族闘争を並列におき、盛んに民族独立闘争を支援した。それは共通の敵となるロシアのツァー体制が存在したからだ。ウクライナなどの多くの民族をロシア民族ではなく独立した民族だと認めることができたのは、まさにツァー体制と戦うほうが、都合がよかったからだ。
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