「ロシアの怨念」がウクライナ事態を引き起こした ウクライナを襲った「コンプレックス」の正体

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民族問題はマルクス主義にとって鬼門といってもよい。その原因は、マルクス自身にある。マルクスは、ポーランド独立の支援、アイルランドのフェニアン党などの民族運動を支持しているが、一方でクロアチア人などの“歴史なき民族”の民族運動を批判している。ウィーンでの1848年革命の際、スラブ民族主義運動によって民主革命を邪魔されたということも尾をひいて、スラブ人、とりわけ哲学者であり無政府主義者であり、そして彼のライバルであったミハイル・バクーニン(1814~1876年)を含めたロシア人に対して、きわめて厳しい。それは幼い頃の生まれ故郷のドイツ・トリーアの町でコサックが犯した数々の暴力の話にも影響されている。

しかし、マルクスの弟子たちは、この民族問題を避けて通ることはできなかった。マルクス主義を標榜する労働者たちの運動は、この民族独立運動と相携えて起こってきたからである。

民族運動と労働運動が相容れない地域

西欧では比較的早くから民族統一による国家の創造という考えが成立していた。だから民族が国家を統一していない、例えばドイツにおいては、ドイツ語を話すドイツ民族を統一することがそのまま労働運動でもあった。だからこそ、まず民族独立運動を行い、そこで労働者の政権の樹立を考えることができたのである。

これらの西欧諸国にあっては、民族独立運動は労働運動と相携え、しかも国家単位で社会主義政権樹立を実現することで、民族独立と社会主義をともに実現することができた。エンゲルスが社会主義者の国際組織である第2インターナショナルで、まずはそれぞれの民族国家の中で社会主義の実現を図るべきだといったのは、そうした条件においてのことであった。

しかし、そうでない地域、例えば東欧のポーランドにおいては、ポーランド人はドイツ人とロシア人に支配されており、国がなかった。彼らが民族独立運動を行えば、その地域に住んでいる支配民族のドイツ人やロシア人の労働運動と対立することになる。そのことをもっとも強く感じたのは、ポーランドのザモシチ生まれのローザ・ルクセンブルクだ。彼女はユダヤ人であり、なおかつ被支配民族のポーランド人であり、なおかつドイツ社会民主党の党員であるという複雑な状況にあった。

この地域はロシア人に支配されていた。ザモシチは現在ウクライナとの国境に近い町である。第2次世界大戦でソ連に土地を奪われるまでは、旧ソ連領ウクライナの西のかなりの部分がポーランドだった。

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