歴史教科書で徳川綱吉の記述が変わった背景事情 お笑い芸人と歴史研究家がわかりやすく解説
とはいえ、生類憐みの令の内容は極端すぎます。こんな法律を出した綱吉の本当の意図はどこにあったのか?
実は綱吉は、戦国の野蛮な風習を消し去り、儒教の徳や仁、仏教の慈悲の教えを広め、世の中を変えようとしたのです。
まだこの時代、江戸では辻斬が横行し、野蛮なかぶき者が暴力沙汰を起こすなど殺伐としており、あの水戸黄門(徳川光圀)も若い頃、寺の軒下にいた貧しい人を面白半分に斬り殺しています。そんな野蛮な社会を綱吉は変えたいと願ったのでした。
だから将軍になると、綱吉は幕府の儒者林家の孔子廟と家塾を拡大して湯島へ移し、幕臣たちにその学問所で儒学を学ぶようすすめ、自らも幕臣や大名に講義を始めたのです。しかもその回数は、生涯で400回以上に及んだというから驚きです。
また、堕胎(人為的に流産させること)や捨て子を禁じ、行き倒れた人を保護するように命じています。逆に言えば、当時の日本人は普通に子どもを捨てたり、行き倒れた人を見捨てたりしていたのです。綱吉は、強圧的な武断政治から儒教に基づく文治政治への転換を目指したわけです。
歴史教科書の記述はどうなった?
研究によって、こうしたことがわかり、歴史教科書の記述も変わってきました。たとえば生類憐みの令については、「この法によって庶民は迷惑をこうむったが、特に犬を大切に扱ったことから、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた」(『詳説日本史B』山川出版社 2021年)とプラス評価も見られるようになっていますし、綱吉の治政も「戦国時代以来の武力によって相手を殺傷することで上昇をはかる価値観はかぶき者ともども完全に否定された」(前掲書)と評価されているのです。
また、『社会科 中学生の歴史』(帝国書院 2020年)では、綱吉を「文治政治に努めた将軍」と題し、「綱吉は学問を奨励し、湯島(東京都)に孔子をまつる聖堂を建てて儒学を盛んにしたり、捨て子や老人へのいたわりを人々に求めたりするなど、戦乱の気風を改めることに努めました」と紹介されています。
だから現代の中学生や高校生は、綱吉を暗愚な犬公方というより、名君として覚えているはずです。このように人物の評価も、研究の進展によって大きく変わっていくものなのです。
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