歴史教科書で徳川綱吉の記述が変わった背景事情 お笑い芸人と歴史研究家がわかりやすく解説
最初の発令は、一般的には「将軍が道を通過するとき、犬や猫をつながずに放しておいていいよ」という内容だったと言われています(諸説あり)。
でも、だんだんと法令の内容がヤバくなっていきます。魚や鳥を生きたまま食用として売るな、犬や猫に芸を仕込んで見世物にするな、飼っている犬の毛色を報告しろ、犬に危害を加えた者を見たら密告しろ、鰻やどじょうを販売するな、釣りもダメと……。完全に異常ですよね。
そんなわけで、人々は飼い犬を傷つけたらまずいと、こっそり犬を捨てるようになります。このため江戸市中に野犬が急増。でも、誰も犬に餌を与えないので、腹をすかせた犬が子どもを襲うようになり、なかには、生類憐みの令にムカついて、犬を傷つけたり殺すような危ない人も登場します。
中野の犬屋敷は広さが約30万坪
すると綱吉は驚くべき政策をとります。次々と各地に大きな犬屋敷をもうけ、町をうろつくお犬様を駕籠に入れて運び、これらの屋敷に収容し始めたのです。
たとえば中野の犬屋敷は広さが約30万坪におよび、10万〜20万頭を飼育していたというから尋常ではありません。しかも犬屋敷には犬医者(獣医)も常駐し、病気になったら手厚く看護されたといいます。そのうえ、犬のエサ代など、犬屋敷の維持費はすべて町人が負担。ざっと今の金額で70億円に達したというから、ものすごい迷惑です。
綱吉がなぜこんな政策をとったかと言えば、綱吉の母・桂昌院が、僧の隆光に綱吉に跡継ぎの生まれないことを相談したところ、「それは、前世で多くの殺生をおこなった報い。生き物をいつくしみ、殺生を禁ずれば男子に恵まれます。将軍は戌年生まれですから、犬を保護しましょう」とアドバイスしたことがきっかけだと言われてきました。でも、この話は嘘だということがわかっています。
また、法令に触れた人々を毎日50人処刑したとか、蚊を潰しただけで島流しになったとか、病気の息子のために吹き矢で燕つばめを殺して肝を食べさせた父親は、子どもと一緒に処刑されたといった逸話もすべてデマ。さらに地方では法令はそんなに守られなかったそうです。