ペスト、スペインかぜ、コレラの物語を今読む意味 コロナ文学が今すぐ書かれなくても問題ない訳
斎藤:ぺストのようなドラマチック感がないのかな。石井正己さんの評論『感染症文学論序説 文豪たちはいかに書いたか』(2021)を読むと、これは結核ですけど、正岡子規なんか本当にソーシャルディスタンスを取ってるよね。窓を開けて句会をやってるし。
高橋:そう。結核の文学は山ほどあるのにね。それから、日付がないっていうのも大きいと思います。震災も戦争も特定の日付があるんですよね。
斎藤:感染症はいつ始まって終わるのか特定ができない。戦争のようなインパクトのある風景もない。だから埋もれて、忘れ去られた。2011年に対談したとき、高橋さんはすぐに作品で答えることが大事だとおっしゃってたじゃないですか。高橋さんの『恋する原発』、川上弘美さんの『神様2011』、古川日出男さんの『馬たちよ、それでも光は無垢で』(すべて2011)、東日本大震災後、というか福島第一原発の事故後につぎつぎと作品が発表された。
震災とは違い瞬発力で行ける範囲は限られている
高橋:そうですね。
斎藤:コロナ文学も、もっと書かれるべきだと言う人がいるんだけど、そんなに急がなくてもいいと思うんですよ。だって、まだ終束していないわけで。
日本で本格的な戦争文学が出てくるのは1970年代なんですね。生存者へのインタビューや日米の膨大な資料をもとにした大岡昇平の『レイテ戦記』(1971/中公文庫)や、軍隊生活の理不尽さを描いた大西巨人の大長編『神聖喜劇』(1978/光文社文庫)は、執筆に膨大な時間を費やしている。山中恒さんの『ボクラ少国民』(1974/講談社文庫)も70年代で、終戦から30年近く経っています。『ペストの記憶』だって、出版されたのは半世紀以上後で、64年の東京オリンピックを2021年に書いてるくらいの感じです。それぐらいのレンジがあってもいいんじゃないかと。
高橋:ただ、震災とはちょっと性質が違いますよね。
斎藤:違うと思いますね。瞬発力で行ける範囲は限られている。
高橋:医学者の山本太郎さんの『感染症と文明 共生への道』(2011/岩波新書)によると、感染症は単なる病気じゃなくて、文明の病なんですね。文化や文明が生まれ、他の文化や文明と交流するようになって初めて、感染症が1つの地域を超えて伝播していった。実は、スペイン風邪も、第1次大戦の軍隊と共に世界に広がっていったし。ある意味で、戦争も「文明の交流」ですから。
斎藤:ウイルスは人間と一緒に船や飛行機に乗ってどこへでも移動するからね。
高橋:人間が人間であるかぎり、感染症的な状況から逃れられないということがよくわかりました(笑)。
第1回:21歳で芥川賞「宇佐見りん」だから描ける独特世界(3月26日配信)
第2回:小説「ペスト」、感染症で人が狂う姿が今と似る訳(4月2日配信)
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