お父さん犬から見る「家族崩壊論」の滑稽さ ソフトバンクのCMは「家族」の本質を表している

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ダレが家族なのか? ペットが家族になりうるという観点から、これをあらためて考えると、現代の日本社会では、「その人が家族だと思う人や生き物が、その人にとっての家族だ」ととらえるしかないということになります。ペットが家族なのなら、当然、同性愛者同士も家族と認められるべきでしょう。ダレとダレが家族になろうと、「しょせん人間の中の問題」にすぎないのですから。

家族は「崩壊」し続けている

こうした家族のとらえ方を踏まえると、性役割分業の希薄化や家族の縦の線(成人し結婚した子とその親の関係)が薄れていくことを指して、「家族の崩壊」と問題視する議論がいかに滑稽なものかがわかります。

家族はそもそもかつて仕事の場(農業や商工業)であり、教育の場であり、生活を共にする場でもありました。それが近代以降、仕事は工場へ、教育は学校へ、とその役割を外部化してきました。家族の歴史は、その役割を外部に委託していく歴史であり、ですから「家族の崩壊」を嘆く議論はいつの時代にも存在します。逆に言えば、家族は歴史的につねに「崩壊」し続けてきた、と言ってもいいでしょう。

それが最近は、子育ては保育園へ、介護は福祉施設へという形でさらに外部化が続いているだけのことです。親族や地域が見ていた子育てが、母親だけの役割になっていくのは、日本では都市部で大正時代。全国に広がるのは高度成長期のことです。それを勝手に「伝統」と勘違いするために、「崩壊」だと大騒ぎをすることになるのですが、実は歴史的にずっと起きてきたことの延長上にある現象です。

「家族の崩壊」を嘆く議論というのは、ある時期の家族像を勝手に「伝統」だと解釈し、そこからのズレのみに過剰に反応する議論にすぎません。「母親の食事作りが何十万年も続いている」と史実に反する主張をする味の素のCMも、それと同じものです。家族がその役割を縮小させ、外部化させるのは、今までずっと続いてきた「崩壊」の一局面なのです。

しかし、そうやって外部化が続いたとしても、家族がなくなることはおそらくないでしょう。だとすれば最終的に、ナニが家族を家族とするのでしょう? 家族において「最後まで外部化されないナニか」とは何なのでしょう。

家族はいらない、とひとりで生きる生き方もあるでしょう。ただその人も、ペットを飼っていて、家族だと思っているかもしれません。ペットが家族だとすると、家族の結び付きのカギは、血縁でも配偶関係でも、まして性役割分業でもありません。

最終的に家族を家族たらしめる「ナニ」にあたるのは、ダレかを特別に大事だ」と思う感情以外にないのです。犬と金魚の「家族度」に違いがあるのは、やはりその感情的交流の密度が違うためなのでしょう。いずれにしても「ダレかと家族でいよう」という気持ちだけが、最後に家族を基礎づけるものなのです。

だからこそペットは、同性婚や事実婚、里親や養子が立派な家族であるのと同様に、家族の一員だということができます。多様な家族を認める社会の最先端を、お父さん犬とあなたのペットが走っているのです。

瀬地山 角 東京大学教授

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せちやま かく

1963年生まれ、奈良県出身。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了、学術博士。北海道大学文学部助手などを経て、2008年より現職。専門はジェンダー論、主な著書に『お笑いジェンダー論』『東アジアの家父長制』(いずれも勁草書房)など。

「イクメン」という言葉などない頃から、職場の保育所に子ども2人を送り迎えし、夕食の支度も担当。専門は男女の社会的性差や差別を扱うジェンダー論という分野で、研究と実践の両立を標榜している。アメリカでは父娘家庭も経験した。

大学で開く講義は履修者が400人を超える人気講義。大学だけでなく、北海道から沖縄まで「子道具」を連れて講演をする「口から出稼ぎ」も仕事の一部。爆笑の起きる講演で人気がある。 
 

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