日本を「敗戦必至の戦争」に巻き込んだ男の正体 「近衛文麿首相の発言」は何が問題だったか?

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昭和6年(1931)から、日本軍は満州に軍事侵攻し、翌年、傀儡国家である満洲国を建国した。仕方なく国民政府は、翌年、塘沽停戦協定を結んで満洲国を黙認した。

じつは昭和2年(1927)から、国民党は中国共産党と内戦をしており、蔣介石はそちらとの戦いを優先させたのである。しかし、満洲事変後も、日本軍は華北5省に進出していくなど、侵略の手を緩めなかった。この状況に、中国人は強い不満を持っていた。

そこで昭和11年(1936)12月、国民党の重鎮・張学良は、戦いの視察で西安に来た蔣介石を監禁し、共産党と協力して統一抗日戦線をつくるべきだと迫り、受け入れさせた。

このように盧溝橋事件当時、すでに国民政府は共産党と停戦し、抗日へ向けて共闘できる体制ができつつあった。それが、蔣介石の徹底抗戦宣言につながったのである。

近衛文麿の安易な決断

まさに近衛文麿の安易な決断が、大戦争のトリガーとなったわけだ。もちろん、蔣介石にこう言われてしまっては、日本側も後へ引けなくなった。かくして続々と華北へ軍隊を送り、とうとう全面的な日中の軍事衝突に至ったのである。

すると中国も昭和12年9月、国民政府の蔣介石と中国共産党の毛沢東が第二次国共合作(国民党と共産党の提携)に踏み切り、抗日統一戦線をつくりあげた。

戦いは、上海で日本軍人が殺されたことをきっかけに、ついに華中へも飛び火していった。日本は2個師団を日本本土から上海へ派遣した。これまで日本政府は、盧溝橋事件からの一連の武力衝突を北支事変と称していたが、戦線が華中へも広がっていったことから、支邦事変と名称を変更した。

上海での戦闘は、華北でのそれとは大きく異なり、中国軍はすさまじい抵抗を見せた。日本はさらに3個師団を派遣したが、戦いでの死者は9000人を超え、負傷者も3万人にのぼっていった。柳川平助率いる師団が杭州湾から上陸して中国軍の背後を突いたこともあり、2カ月余りで中国軍が撤収、ようやく上海を制圧した。この戦いを第二次上海事変と呼ぶ。

日本軍は、この勝利の勢いを駆って300キロ離れた国民政府の首都である南京を目指すことにした。これは、現場の司令官による独断行動だった。ただ、現場の指揮官のなかには、南京を制圧する意義を疑問視する声や、長距離の移動に対して補給を心配する声が強かったが、結局、攻略派の意見に押し切られる形で、南京への遠征が決まったようだ。

だが、蔣介石はいち早く南京を脱出し、首都を漢口、さらに重慶へと遷した。昭和12年12月、ドイツ駐中大使トラウトマンは、全面的な武力衝突に発展してしまった日中戦争を終結させるべく、日中の調停に乗り出した。

次ページ残念ながら、和平交渉の結果は…
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