日本を「敗戦必至の戦争」に巻き込んだ男の正体 「近衛文麿首相の発言」は何が問題だったか?

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蔣介石は、この和平案に乗る気を見せていたが、日本側では意見が割れてしまった。陸軍参謀本部は、重慶の蔣介石が、アメリカ、イギリス、ソ連の支援を受けて抗戦すれば、早期に戦いを収拾するのは困難になり、戦争は泥沼化して国力は疲弊し、ついに日本は衰亡してしまうと考え、トラウトマン工作の成功に期待を寄せた。

ところが、近衛内閣の閣僚は「もし、陸軍参謀本部が和平を求めるというなら、内閣は軍部とは別の所信を表明し、この戦争に邁進する」と主張した。このため、参謀本部のほうが妥協し、トラウトマンの工作は日本側の拒絶によって終わってしまった。

もし和平交渉が成立していたら

もしこのとき、和平交渉が成立していたら、太平洋戦争の悲劇はなかったろう。しかも悪いことに、近衛文麿首相は「帝国政府は、爾後国民政府を対手(相手)とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して、更生新支那の建設に協力せんとす」という声明を出してしまう。

さらに、この意味について尋ねられた近衛首相は、「国民政府を対手としないというのは、否認するというより抹殺するということだ」と過激な捕捉説明をおこなった。

このように戦争している相手国政府を否定することによって、戦争終結の道を自ら閉ざしたのである。一方の蔣介石も、日本軍への徹底抗戦を表明した。かくして、日本政府と国民政府との和平の可能性は消滅した。

昭和14年(1939)末までに、大陸に派遣された日本兵は100万人に達した。その後、日本は国民政府の重鎮だった汪兆銘を重慶から脱出させ、彼に南京で新国民政府(日本の傀儡政権)をつくらせた。この新政権と交渉し、講和を結んで日中戦争を終わらせようと考えたのである。が、新国民政府は中国国民の支持を得ることができず、汪政権は蔣介石を圧倒するような大勢力とならなかった。

日中戦争が始まると、近衛内閣は「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」をスローガンに、国民精神総動員運動を展開していった。

儀式や行事で精神教化をはかり、国債の購入や金属の回収を進め、貯蓄を奨励した。国民の戦時気分を盛り上げ、日中戦争に協力させていこうとしたのである。

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