日本を「敗戦必至の戦争」に巻き込んだ男の正体 「近衛文麿首相の発言」は何が問題だったか?

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日本を敗戦に導いた近衛文麿発言の問題点とは?(出典:『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ 「死ぬほど痛い」かすり傷』(秀和システム))
大戦争のトリガーとなった時の宰相・近衛文麿の発言とはいったい? テレビでもおなじみ歴史研究家の河合敦さんの新刊『偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ 「死ぬほど痛い」かすり傷』より一部抜粋・再構成してお届けする。

1937年の「盧溝橋事件」いったい何があったのか?

昭和12年(1937)7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で、日本の支邦駐屯軍第一連隊第三大隊第八中隊が夜間演習をおこなっていたが、数十発の銃声が聞こえたので、人員点呼してみると、1名が戻ってこない。

「さては、中国軍に殺害されたのだ」と判断した支邦駐屯軍は、付近の中国軍と戦闘状態に入った。これが盧溝橋事件である。

しかし翌日、戦闘は終結し、現地において停戦が成立した。行方不明だった兵士も、この日の未明に無事帰還した。おそらく、日本政府が動かなければ、盧溝橋事件はこのまま終息したはず。もちろん、成立したばかりの近衛文麿内閣も、事件の不拡大方針を唱えていた。

一方、陸軍参謀本部と陸軍省内では、大陸へ兵を増員するかどうかで意見が割れていた。だが、まもなく軍では出兵派が優勢になり、近衛内閣に派兵を求めるようになる。彼らの言い分は、「中国軍が40万人の大軍であるのに対し、現地の日本軍はわずかに6000人弱。もしこれ以上、戦闘が拡大することになれば、在留邦人1万2000人の安全は保証できない。

それどころか、日本軍も全滅する恐れがある。牽制の意味でも兵を増員してほしい」というものだった。陸軍の要請を受けた杉山元陸相は、閣議で派兵を要求した。

すると近衛首相は「あくまで事件を拡大させず、現地で解決に努力する」と述べつつも、あっけなく前言をひるがえし、増派を容認したのである。

ただ、当時は軍部大臣現役武官制があり、杉山が陸相を単独で辞職し、陸軍が後任を出さなければ内閣は総辞職に追い込まれる。そうしたことも、近衛が方針を変えた理由だろう。

この動きに対し、中国を支配していた国民政府の蔣介石は、驚くべき決断を下した。7月17日、蔣介石は廬山(江西省北部)において「満州(中国北東部)を日本に奪われてから6年が経つ。日本軍は北京(北平)の門戸・盧溝橋まで迫っている。もし日本軍が北京を奪おうとするなら、弱国ながらわれわれは徹底抗戦する」という声明を発表したのである。

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