メキシコやインドでは、感染症がまたたく間に蔓延したにもかかわらず、政府が大規模な経済政策を行わなかったために、ひどく時代遅れに見えた。
左派とされるメキシコのロペス・オブラドール政権が、2020年に大規模な財政赤字を出さなかった――充分な財政出動を行わなかった――ことを理由に、IMFに非難されるという話題を振りまいた。
転換期を迎えた、という感覚は避けようもなかった。1980年代以降、経済政策の主流を占めてきた正統派の学説がついに終焉を迎えるのだろうか。それは、ネオリベラリズムの終焉の前兆だろうか。
おそらく政府の一貫したイデオロギーとしては、終わりを迎えるのだ。「経済活動の自然な限界は無視できる」、あるいは「市場の規制に委ねられる」という考えは、現実にそぐわなかった。
「あらゆる社会的、経済的ショックに応じて市場は自主規制する」という考えも、同じく非現実的だった。
膨張を続ける金融市場
2008年の時よりも緊急に、生き残りを懸けた介入が決まった。第2次世界大戦以来の莫大な規模だった。
教条主義的なエコノミストは息がとまりかけた。だが、大規模な介入自体は驚くことではない。
経済政策を熟知している正統派はいつも、現実と乖離していたからだ。権力の実践において、ネオリベラリズムはつねに急進的なほど実際的だった。ネオリベラリズムの真の歴史は、資本蓄積を目的とした国家による介入の歴史であり、彼らは時に国家的暴力に強く訴えて反対勢力を強制的に排除した。
ドクトリンがどんな紆余曲折を経ようと、1970年代以降、市場革命と密接な関係にあった社会的現実――政治や法、メディア、そして労働者の権利剝奪に富が強く影響を及ぼす現象――は続いた。
ネオリベラルによる秩序の堤防を決壊させていた歴史的な力とは、なんだったのか。本書が探っていくのは、階級闘争復活の物語ではない。急進的な大衆迎合主義者による異議申し立ての物語でもない。被害をもたらしたのは、頓着のない成長が解き放った感染症と、金融の蓄積がまわし続ける巨大なフライホイール(弾み車)だった。
(翻訳:江口泰子)
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