「つながりの過剰」が「言論の公共性」を脅かす理由 「アカデミック・ジャーナリズム」は可能なのか
『アステイオン95号』の特集は「アカデミック・ジャーナリズム」である。
アカデミック・ジャーナリズムとは何か。筆者は2014年に日本初のジャーナリズム専門事典として刊行された『現代ジャーナリズム事典』(三省堂)に監修編集者として関わり、「アカデミック・ジャーナリズム」の項目を立てた経験を持つ。この立項については編集委員会の中で議論があった。「和製英語」ではないかと疑う声もあったが、それは当たらない。検索してみれば英語圏でも使用例は見つかる。
しかし、ありふれた2つの単語が連なっているだけで文脈次第でさまざまな意味で使われている。それゆえ「定着した用語ではないだろう」という指摘には筆者自身も同意していた。にもかかわらず筆者がその立項が必要と考えた理由を説明しておきたい。
アカデミズムとジャーナリズムの間にある「壁」
地球物理学者でありつつ、軽妙洒脱なエッセーで人気を博し、「天災は忘れたころにやってくる」の言葉を人口に膾炙させた寺田寅彦のようにジャーナリズムを通じてアカデミズムの世界に属す専門家としての知見を一般の人にもわかりやすい言葉使いで表現した人が日本でもかつては数多くいた。英文学者から国民的作家に転身した夏目漱石の例もある。かつての日本ではアカデミズムとジャーナリズムの間は自在に渡り歩くことが可能だったのだ。
その系譜が途絶えたわけではない。しかし、移動は難しくなった。アカデミズムとジャーナリズムがそれぞれに専門化を進めるうちに両者の間には壁が立てられ、その壁は次第に高さを増して自在な往来を妨げるようになってきたと思われる。
こうした状況の到来をいち早く予見していたのが京都学派の俊英として知られた哲学者の戸坂潤だった。1932年刊行の『イデオロギー概論』の中での議論を紹介してみよう。そこで戸坂はジャーナリズムの特徴を「時事性」「現実行動性」「現在性」とし、その時々で時事に関心を示す公衆の理解可能な範囲で事実問題を取り上げるのがその活動であるとした。一方でアカデミズムについては「学派的訓練」を通じて見出すことができる真理を扱うものであり、現実行動性や時事性からは離れて「日常生活の圏外」で繰り広げられる「科学のための科学」を追究する純粋な学術活動であると規定していた。
この定義には今でも違和感がない。人びとが知るべき事実をいち早く取材し、広く伝えてこそジャーナリズムの存在価値があるし、専門性を深め、一般人の想像を超えた真理を科学的に追究することでアカデミズムは進化してゆく事情に変わりはない。
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