「つながりの過剰」が「言論の公共性」を脅かす理由 「アカデミック・ジャーナリズム」は可能なのか
こうした論考を掲載する一方で特集では対談、鼎談もいくつか併録した。アカデミズムの研究成果や研究者へのアクセスを可能とする「知のインデックス」や、学知を踏まえた開かれた議論の場を用意する「シンクタンク」を作る必要をネットメディア「シノドス」運営者の芹沢一也が語る。
優れた研究、評論活動に与えられるサントリー学芸賞と「ノンフィクション分野における“芥川賞・直木賞”を目指す」(主催団体・日本文学振興会の説明より)大宅壮一ノンフィクション賞を共に受賞している渡辺一史と小川さやかが、自らの受賞作の紹介から始めてアカデミズムとジャーナリズムについて語り合う。
アカデミズムの議論を広く社会に示す壇=ステージを用意する新聞論壇面の存在価値について全国三紙の論壇担当記者の座談の場も設けた。
アカデミック・ジャーナリズムがアカデミズム、ジャーナリズムを仲立ちすることはそれぞれの強化につながる。たとえばジャーナリズムは取材源秘匿と情報ソース明示のダブル・スタンダードを臨機応変に使い分けるが、後者に関してはエビデンスを示しつつ緻密な議論を積み上げてゆくアカデミズムの思考法と記述スタイルが参考になる。あるいは取材方法一つとっても、社会学や人類学、エスノメソドロジー等で育まれてきた調査技術や談話分析の方法はジャーナリズムの取材精度を向上させるうえで役立つだろう。
逆にアカデミズムのほうもジャーナリズムを通じて社会に向けて開かれれば、専門集団の独占を離れて社会的評価にさらされることになる。そこでジャーナリズムが議論の場を的確に用意し続けられれば、対話を重ねるうちにアカデミズムは公共性に資する方向性を得てゆくことができるはずだ。
「過剰なつながり」と公共性への脅威
ただし、そこで軽視すべきでないのは昨今の情報環境の変化だ。特集巻頭に載せた論考『数と独立』の中で東浩紀は「いまやつながりがあまりにも過剰で、逆に言論の公共性を蝕みつつあると感じる」と書く。
「大学人が教授会の顔色を窺う。物書きが編集部の顔色を窺う。そんな自己規制はむかしからあったしこれからもあるだろう。完全な自由はない。けれども、そこで教授会や編集部が組織外のSNSの顔色を窺い、SNSにおいてもまた匿名のネットユーザーが相互に顔色を窺いあうとなると話が変わってくる。だれがだれの顔色を窺い、だれがどの発言の責任を負うのか、なにもかもあいまいなまま感情だけが増幅し特定の書き手が槍玉にあげられるということが起きる」
ジャーナリズムとアカデミズムの分断だけでなく、両者を共通に覆う情報環境の変化が公共性への脅威となる。こうした状況認識から東はアカデミズムからもジャーナリズムからも独立した場所に「学問的な正確さと一般読者を見据えたわかりやすさをうまく組み合わせ」た「社会的に意義のある言説」、つまりは公共的な言論の場を作ろうとしている。それもひとつの解なのだと思う。アカデミズムとジャーナリズムの「間」にアカデミック・ジャーナリズムの領域を確保し、その仲立ちによってアカデミズムとジャーナリズムが公共性を取り戻すことをうながす道と、アカデミズムとジャーナリズムの「外」に公共的な言論の場を用意する道――。2つの方向性を示した特集が、何らかの気づきを読者にもたらし、新たな実践につながればと思う。(本文敬称略)
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