渋沢栄一が命狙われた暴漢に金銭支援した深い訳 代表作「論語と算盤」の根底にあった思想とは
当時、この襲撃は、東京市水道の鉄管問題が絡むものと噂されていました。東京市が水道を敷設しようとしたのですが、内地製鉄管の使用を主張する者と、外国製鉄管の使用を主張する者とで意見対立があったのです。
渋沢は、多年の経験と実際問題から割り出して、品質や価格においても外国製に利があると主張。これに対し、内地製を主張する者が「外国製鉄管の利を説く者は、外国人と結託して私利を得ようとする魂胆である」と非難してきます。
そして渋沢の襲撃事件。これは、内地製を主張していた鋳鉄会社の遠武秀行が暴徒を差し向けたものではないかとの流言がありました。襲撃の数日前にも渋沢は遠武と会い、この問題について激論を戦わせたことから、こうした臆測が生まれたのでしょう。
「このままでは遠武君が信用を失墜し、実業界に立つ事が出来なくなるだろうとはなはだ気の毒」に思った渋沢は、仲介者を立てて、遠武氏と面会、談笑したことから、臆測・流言は次第に消えていきました。
なお、結局は内地製が使用されることになったのですが、製品は粗悪で問題だらけ、ついには大疑獄事件まで引き起こしており、渋沢の見解が正しかったことが証明されています。
暴漢が困窮していることを聞いてお金を送った
渋沢がすごいのは、こればかりではありません。自分を襲った暴漢2人を「憎む心にはなれなかった。出来る事ならその罪を許してやりたいと思った」と言うのです。
しかも思っただけでなく、1人の暴漢が明治32(1899)年に出獄したとき(もう1人は獄中にて死亡)、貧窮し困っていることを聞いて、人を介してお金を送ったのです。なぜ、渋沢はこのように驚倒すべき心境に到達できたのか。
その秘密を「常に己を空うして堪忍強くなるやうに修養を怠らなかつたお蔭である」と説明しています。つまり、私情を捨てて謙虚で素直な気持ちになる修養(学問をおさめ、徳性を養い、より高い人格形成に努めること)をしてきたことが要因だということです。
そして、堪忍(忍耐心)を養おうと感じた契機は、渋沢が若いころ、尊皇攘夷の先駆けになろうと企てた暴挙を制止しようとした尾高長七郎(渋沢の従兄)に対し、激怒したことだそうです。
幕末、渋沢らは、攘夷のために、高崎城を奪い、横浜の異人街を焼き討ちにしようと計画していました。しかし、訳あって京都に潜伏していた長七郎は、ほかの挙兵計画(天誅組の変、生野の変など)が次々に失敗していく様を見聞し、挙兵は無謀だと悟り、帰郷してから、その旨を渋沢ら同志に語るのです。
同志と信じていた長七郎の変心に渋沢は怒り、「自分は長七郎を刺しても挙行する」とまで言い放つのでした。徹夜の激論でついに計画は中止となるのですが、渋沢は長七郎に怒り、無謀な計画を挙行しようとしたことを直後に反省し、忍耐すること、熟慮することの大切さを学んだようです。
【参考文献】
渋沢栄一『論語と算盤』(KADOKAWA)
渋沢栄一『渋沢栄一自伝』(KADOKAWA)
渋沢秀雄『父 渋沢栄一』(実業之日本社)
鹿島茂編訳『渋沢栄一「青淵論叢」』(講談社)
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