しかし、これは理論的に破綻している。なぜなら、資本主義が行き詰ったから、新しい資本主義を目指したのであり、それが同じバブルであり、同じ資本主義であれば、持続不可能であることは自明だからだ。
したがって、新しい資本主義は実現しない。そして、バブルも新しい資本主義も破綻する。そして、その後にやってくるものは、近代資本主義の前の世界、中世だ。そして、それは「新しい」中世である。
「新しい」中世とは、持続的な世界である。
近代資本主義が、流動化、市場化、変動、拡大、バブルという世界であるのに対して、「新しい」中世は、固定化、関係取引、安定化、日常の繰り返し、循環経済という世界である。
資本主義がグローバル化、世界市場の一体化、膨張の世界であったのに対して、「新しい」中世は、ローカル化、多様化からの独自化、持続的な安定状態の世界である。
イノベーションという名の下、新しいぜいたく品(嗜好品、エンターテインメント品、装飾品、ブランド)を次々と繰り出し、欲望を刺激する世界から、必需品の繰り返しからの改善、改良、高品質化により、質の高い必需品に囲まれる世界になる。
過去の中世においても、農業生産力の上昇、開墾、新しい農法の発明、さまざまな技術の発明の元が蓄積された時代であった。それが、1492年以降、大航海時代が幕を開け、拡大、争奪、支配、膨張、戦い、競争の世界の中で、流動化が進み、その動員により、バブルが花開き、刺激的な消費による快楽を享受してきた。それを使い尽くしたので、今度は、再び、蓄積の時代に戻るのである。
「新しい」中世の始まりの気配はここかしこに
中世のような社会階級の固定化は復活しないだろう。いったん流動化した社会は、そこは元には戻らない。しかし、新しく分断された社会が成立していくだろう。分厚い中間層、格差社会という言葉は、資本主義の下で、富だけが人々の間の差をあらわすものであったことから生まれたものである。金持ちの貴族と貧乏な貴族は争ったが、貧しい武士と豊かな商人とは別の世界に生きていた。それぞれが独自の幸せと安定性と日常を繰り返す、「新しい」中世社会が成立するだろう。
中世の王や宗教の権威は、近代になって、ブルジョワジーの資本、カネの力に屈し、世の中を支配する力は富に変わった。「新しい」中世では、何が支配力になるかは、まだ不明である。知識、人間力など美しい言葉は考えうるが、これは不明である。
ただ、「新しい」中世の始まりの気配はここかしこにある。社会の分断、多様化、相互理解の不可能性、グローバリゼーションからローカライゼーション、覇権国家の非存在、Gゼロの世界の到来など、あらゆる兆候がある。
「新しい資本主義」という言葉が政治家のキャッチコピーになるのも、その兆候のひとつである。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら