このころの小学校野球大会は、公認野球規則にのっとり「盗塁あり」だった。中等学校や大学の選手、指導者が指導に当たったこともあり、当時の高等小学校の野球も「つなぐ、走る」野球が主流だった。
広島県呉市は野球どころとして有名だが、昭和初期、呉市中心部の二河小学校に藤村富美男、隣の五番町小学校に鶴岡一人という有望選手が登場した。
藤村も鶴岡も全国大会に出場し、活躍の模様は地元新聞に大きく報じられた。2人はプロでもライバルとなり、ともに野球殿堂入りする大野球人になるが、小学校の野球熱も、甲子園に負けず劣らず盛んだった。
ただ、当時の小学野球は誰もが楽しめるものではなかった。野球チームに入って大人たちの指導を受けることができるのは、体が大きく、運動能力が高い一部の子に限られた。レベルは高く、小学校であっても捕手が盗塁を刺すことが可能で「盗塁」をめぐる駆け引きは重要な戦術となっていた。
一方で、戦前は「草野球」「野球ごっこ」のようなものは、あまり普及しなかった。野球用具やボールは高価だったため、だれもが気楽に手にすることができるものではなかったのだ。
戦後の空き地での「野球ごっこ」
敗戦後、日本を占領したアメリカを中心とする連合国軍総司令部(GHQ)は「野球」を占領政策の柱の一つにした。民政を担当したGHQの経済科学局長だったマーカット少将がアマチュア野球選手だったこともあり、プロ野球を早々に再開させるとともに、少年たちに野球を奨励した。その流れで、「赤バットの川上(哲治)、青バットの大下(弘)」が少年たちのヒーローになったのだ。
子どもたちは空襲で焼け野原になった空き地に集まり、木切れのバットで、紙や布を丸めたボールを打つ「野球ごっこ」を始めた。当初はユニホームもなく、グローブやミットもそろわなかったが、子どもたちは夢中で野球に興じた。
藤子不二雄の漫画を読めばわかるように、戦後の子どもたちは放課後に近所の空き地で「野球ごっこ」をするのが日常だった。極端に言えば「男の子の遊び」と言えば「野球」だったのだ。
戦後盛んになったこうした「野球ごっこ」は、戦前からあった小学野球、中等学校野球とは別の世界だった。子どもたちは指導者に従うのではなく、自分たちでルールを決めた。人数がそろわないと「三角ベース」にすることもあったし、「透明ランナー」を設定したりした。また盗塁阻止は小さな子では難しいので「盗塁禁止ルール」も適宜導入された。
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