「グローバリズムという病」にかかった日本 シンガポールのような国が、本当に理想なの?
このとき、吉岡の頭の中にあったのは、当今隆盛のグローバル人材育成に対するアンチテーゼとしての大学の役割であっただろう。実際に、立教大学がグローバル戦略なるものを断固として拒否し続け、学問の本義を守り続けているかどうかに関しては疑問が残るのだが、このようなことを大学のトップが言い続けることが重要なことではないかとわたしは思う。
この年の卒業式において、多くの大学の総長が、祝辞の中でグローバルに活躍できる人材育成の要を説いていたのである。実際に現場の教員がどう考えているのかはおくとしても、文科省からはグローバル人材育成の指令が出ており、予算編成や各種プログラムの中で、大学人は苦慮していることが推察される。
文科省のホームページを覗くと、「スーパーグローバル大学等事業」なるページに出くわす。そこには、こんな文言が最初にあらわれる。
若い世代の「内向き志向」を克服し、国際的な産業競争力の向上や国と国の絆の強化の基盤として、グローバルな舞台に積極的に挑戦し活躍できる人材の育成を図るため、大学教育のグローバル化のための体制整備を推進する。
「スーパーグローバル」なる言葉が文科省のホームページに出てくることに目を疑うが、その事業の内容に目を通すと、まるで世界中の大学が、グローバル化競争を行っており、文科省が先導して、日本の大学を世界でトップクラスのグローバル人材育成機関にしようとするプログラムがこれでもかというように並んでいるのである。
しかしそれはあくまでも、グローバル化こそ所与の目標であるかのように考えているものたちのグローバル化競争のようで、グローバル化が進む世界で大学が何を為すべきかを根底的に問うた言葉だとは言い難い。吉岡が言ったように、大学は時代性というものをときに疑い、ときにそれを根底的に問い直す場であったはずである。
「スーパーグローバルな大学」を作れという大号令と、そのイケイケどんどんの姿勢には閉口せざるを得ないが、こういった圧力が政治的にも経済的にも大学を圧迫し、理事会なども率先してこれを受け入れるという傾向が顕著なのである。そして、大学というものが、自ら、企業からの要請に応える人材育成のサービス機関となるとすれば、それは大学の自殺に等しいとわたしは思っている。
この大学のグローバル化を直接に要請しているのはグローバル企業であり、そのグローバル企業に支えられている政治家たちであり、グローバル競争を克ちぬくことが国益だと信じている官僚たちだろう。かれらがよく引き合いに出す、グローバル化した場所のひとつがシンガポールである。はたして、シンガポールはわたしたち日本が目指すような国なのだろうか。
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