「グローバリズムという病」にかかった日本 シンガポールのような国が、本当に理想なの?

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では、なぜグローバル人材なんていないということをことさらに言うのか。いずれも、人間というものの一面を抽象していることには間違いはないのだが、グローバル人材なるものは抽象とも呼べないわけのわからない代物だという他はない。

なぜなら、「労働者」という言葉は労働現場にあらわれる人間を指し示すと同時に、人間を労働と資本という関係でとらえたときのひとつの位相を示す抽象的概念でもあるが、「グローバル人材」は人間というもののどんな側面も抽象してはいないからだ。

英語がしゃべれる人間=グローバル人材ではない

人間は、そのふるまい方、居場所、職業、性格など様々な要素によって抽象的に描かれうる。工場で働いていれば「労働者」であり、丸の内あたりのオフィスで背広で仕事をしていれば「ホワイトカラー」であり、すぐに腹を立てて暴力沙汰を引き起こす性癖をもっていれば「喧嘩っ早いひと」であり、当今のモードを牽引する美形のロールモデルであれば「二枚目」ということになる。そのようにして抽象され、概念化された人間は確かに人間の本質的な側面を言い当てている。

しかし、「グローバル人材」とは、どこにいて何をしている人間を抽象し、そこからどんな本質的側面が浮かび上がってくると言うのか。実際のところ、「グローバル人材育成プログラム」が政府によってその要を喧伝され、大学では実際にそのようなプログラムがすでに起動しており、財界もまたそれを歓迎している。それらを指嗾(しそう)するものたちは、自分こそがグローバル人材であると思っているらしい。

もし、わたしは「グローバル人材ですよ」などと自称する人間がいたとして、それはいかなる人間的特徴を有しているのか。

英語が喋れる人間がグローバル人材ではないことは言うまでもないことだろう。もし、英語使いがグローバル人材なら、アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人はほとんど、生まれながらに(母語を覚えたときにということだが)グローバル人材であって、その他のほとんどの国民はローカルな人材でしかないということになってしまう。さすがに、グローバル人材育成の要を唱えているものも、そこまでは言うまい。

では、他にどんな特徴を持った人間をグローバル人材というのだろうか。

海外の習慣や文化に通暁している人間ならば、昔からその道の専門家がいたし、海外経験を生かして仕事をしているビジネスマンも多いだろう。かれらは、たしかにビジネスの現場においては有用性を発揮することができるだろうが、グローバル人材育成プログラムなるものの中身を見る限り、上記の異文化を学ぶための、たとえば仏文学や、西洋哲学や、文化人類学といったものが重用視されているようには到底思えない。

むしろ、現代の日本の大学からは、仏文科や、人類学といったリベラルアーツの学科は消えつつあり、代わって未来創造学部だとか、情報フロンティア学部だとか、グローバル・メディア・スタディーズ学部、アジア太平洋マネジメント学部といった不思議な学部、学科が出現しているのである。

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