「グローバリズムという病」にかかった日本

シンガポールのような国が、本当に理想なの?

時代が変化し、その変化に即応する能力を身に付ける必要からこのような学部が続々と生まれているのだから、それでいいじゃないかということなのかもしれない。需要があるんだから、大学はその需要に応えるのは当たり前だというわけである。

立教大学総長が語った、大学の存在意義

しかし、大学が学問の場所であるとして、そもそも、学問とは何のためにあるのか。かつて、わたしが勤務する大学の総長である吉岡知哉は、2012年の大学院の卒業式にあたって大学の存在意義に関して次のように述べた。

一言で言えばそれは、「考えること」ではないかと思います。

大学とは考えるところである。もう少し丁寧に言うと、人間社会が大学の存在を認めてきたのは、大学が物事を徹底的に考えるところであるからだと思うのです。だからこそ、大学での学びについて、単なる知識の獲得ではなく、考え方、思考法を身につけることが大切だ、と言われ続けてきたのでしょう。

現実の社会は、歴史や伝統、あるいはそのときどきの必要や利益によって組み立てられています。日常を生きていく時に、日常世界の諸要素や社会の構造について、各自が深く考えることはありません。考えなくても十分生きていくことができるからです。あるいは、日常性というものをその根拠にまで立ち戻って考えてしまうと、日常が日常ではなくなってしまうからだ、と言ったほうがよいかもしれません。

しかし、マックス・ウェーバーが指摘したように、社会的な諸制度は次第に硬直化し自己目的化していきます。人間社会が健全に機能し存続するためには、既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。

大学は、そのために人間社会が自らの中に埋め込んだ、自らとは異質な制度だと言うことができるのではないでしょうか。大学はあらゆる前提を疑い、知力の及ぶ限り考える、ということにおいて、人間社会からその存在を認知されてきたのです。

既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくことが「考える」ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されていてはならない。つまり、大学が自由であり得たのは、「考える」という営みのためには自由がなければならないことをだれもが認めていたからに他ならない。大学の自由とは「考える自由」のことなのです。言葉を換えると、大学は社会から「考える」という人間の営みを「信託」されているということになると思います。

見事な祝辞であると思う。このとき卒業式の現場にいたわたしは、思わず拍手をし、吉岡総長の言葉の一端をツイッターで送信したのだが、驚くほどの反響があったのを覚えている。

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