渚カヲルが何者か掴めない人に知ってほしい視点 碇シンジをめぐる3人の父たちは何を象徴するか

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ゲンドウの乗る13号機とシンジの乗る初号機は、対照的な動きをする。13号機は「絶望」であり初号機は「希望」である。それが「同じ」だというのは、どういうことなのだろうか。

絶望でも希望でもなく

本作には槍が複数出てくる。ロンギヌスは「絶望」の槍だと説明され、カシウスは「希望」の槍だと言われる。だが最終的に使われるのはガイウスで、「ありのまま」の槍であり、人類の知恵と意志が作り出したものだ。それはミサトたちが作り、マリが持っていってシンジに渡し、ファイナルインパクトが起こる。「絶望」と「希望」ではなく、「大地」を連想させる響きの名の槍が選ばれ、世界を変えたり時間を戻すのではなく、「ありのまま」「自然」を残すことをシンジは選択する。

ミサトたちは「神に屈した絶望のリセット」ではなく「希望のコンティニューを望む」と言い、「人の思いでは何も変わらんさ」というゲンドウの絶望と対比されていた。なぜ、希望がダメなのかについては、冬月が説明している。「希望という病に縋る」のも人類だからだ。希望を、アニメや理想社会の実現と言い換えてもいいだろう。この3つの槍の差は、前述の3種類の「父性」の違いにも相当している。

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どちらも拒否し、自然やありのままを肯定するという思想あってこその第3村であり、結末における実写パートである。

結末で、映画は、突然、実写背景になり、庵野秀明の故郷にある宇部新川駅が現れる。大人になったシンジとマリは、どうも付き合っているらしいイチャイチャした絡みを見せた後に、階段を駆け上がり、駅から外に出ていく。画面は空中からそれを撮影し、街の全景を映していく。レールから外れ、自由になり、開かれた外の世界、現実世界に出ていこうというメッセージであろうか。

「現実に帰れ」というメッセージはTV版、『EOE』と変わっていないが、より優しくなり、世界を終わらせるのではなく、この繊細で壊れやすい世界と生命を大事にするというメッセージが付け加わっているのが大きな変化だ。

藤田 直哉 批評家

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ふじた なおや / Naoya Fujita

1983年、札幌生まれ。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。日本映画大学准教授。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』『新世紀ゾンビ論』『娯楽としての炎上』他。

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