なぜ、あえて「カタワ」という言葉を使うのか 湯浅誠×乙武洋匡 リベラル対談(後編)

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湯浅:なるほど。

私が今、自分の過去の本を読んでいちばん強く感じるのは、一言でいうと、基本的なトーンの違いなんですよね。昔は「なんでわかってくれないんだ」っていういらだちを吐き出すようなトーンなのです。わからない人に寄り添う感じはない。

もちろんそれに共鳴してくれる人もいるし、それで問題の存在に気づいてくれる人もいるのだけれど、でもそのトーンのせいで妙に責められているような感じを受ける人もいて、その人たちはむしろ遠ざかってしまったりする。そうすると結果的に私は目的が果たせていないということになる。

障がい? しょうがい? だったらカタワでいい

乙武:確かに湯浅さんのおっしゃるとおり、あえて過激で挑発的な言葉を使うことで、一般の人の目を引きつける効果はあります。でもそういう言葉を使うことで敬遠する人も出てくるのも確かで、その使い分けはすごく難しい。

たとえば、僕は自分自身のことをツイッター上で「カタワ」などと表現する。いまでは差別語とされていますから、当然、炎上するわけです。では、なぜあえてそんな言葉を使うかというと、最近、障害の「害」という字を平仮名で表記する風潮が広がっている。なぜなら「害」という字が社会の害になっているように感じるからだと。でもそれを平仮名にするなら、今度は障害の「障」の字だって、「差し障る」という字なんだから、それも平仮名にしろという話になるだろうし、「しょうがい」などとすべて平仮名にするくらいなら、もう別の言葉にしてしまおうという流れになっていくと思うのです。

だったら、「カタワ」でもよかったんじゃないかと。「カタワ」の語源って、「車輪は片方だけだと不具合がある」=「片輪」ですから、そこまで侮辱的な意味ではなかったはずなのです。でも、それが使われていくうちに「差別的だ」という理由で、「身体障害者」という呼び方になった。イタチごっこだと思うんですよ。障害者に対する本質的な意識や考え方を変えないかぎり、いつまで経ってもそれが続くだけでしょう。

湯浅:根本的なところ、でね。

乙武:まさに。そうした問題提起の意味で使っているのですが、まあ過激は過激ですよね。でも、過激な言葉を使うことで振り向いてくれる人が、やっぱり多いわけです。

しかし、先ほどもお話したように、そういう手法をとることで離れていく人もいるわけで、そのあたりのさじ加減に難しさがあるんですけど。

湯浅:つまりある時期までは、そういう攻撃的なスタイルが必要なことがある。でもある段階を越えると、それだけではやっていけなくなる。そうするともうちょっとウイングを広くしながら、それこそ強硬な反対をやわらかい反対にもっていくようなことをやらないといけない。それには、とんがっているだけでは駄目だということになる。これは必然的な変化だと思うのです。

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