「いまさらやめられない」が生んだ350万人の悲劇 日本は負けを承知でなぜあの戦争を続けたのか
戦場で、国内で、人々が酸鼻を極める日々を送らざるをえなくなる前に、なぜ負けが明白な戦争をやめることができなかったのか。この問いは、なぜ戦争を始めたのかよりも重い意味がある。
最後まで責任と権限のあいまいなまま戦後へ
大変な犠牲が出たうえに負けは確実、それでもなお、やめられなかった理由はいったい何だったのだろうか。
私は社長時代に4000億円の不良資産を処理したが、赤字決算となれば株価は下がり、株価が下がれば株主から批判される。ひとつ間違えば経営危機となり、社長は四方八方から責任を追及される。
手柄は自分のもの、責任は他人のものが人間の本性である。そこで、みんな御身大切で責任を取ろうとせず、問題を先送りにしてしまう。
戦時中の指導者もそうだったのではなかろうか。戦争をやめるということは、南方の島々もアジアにおける権益も手放すということだ。それは赤字決算の比ではない。誰も進んで責任を負おうとは考えなかったはずだ。
いや、そもそもはじめから責任を負って戦争に臨んでいたのかも不明である。
これも私が社長時代、ある役員から事業プランが上がってきた。私は実現困難と判断したが、本人が強く求めるので、そこまで自信があるならと実行を認めた。ただし「他人に任せず君が最後まで実際に陣頭指揮を執ることを条件とする」とした。失敗したらその責任を取らせるという意味である。
事業プランの承認を得たら後は現場任せ、失敗しても責任を現場に押し付け自分は取らない。そんな腹づもりなら、失敗しても自分は安全なのだから、無謀な計画でも安易に実行しようとする。これが見通しの立たない事業に手を着けるときの心理だ。責任の所在があいまいなのである。
戦前の外交評論家、清沢洌が戦時下の国内事情をつづった『暗黒日記』にこんな記述がある。
「昭和20年2月19日(月) 蠟山君の話に、議会で、安藤正純君が『戦争責任』の所在を質問した。小磯の答弁は政務ならば総理が負う。作戦ならば統帥部が負う。しかし戦争そのものについてはお答えしたくなしといったという」
清沢は小磯総理の答弁を記した後に、「戦争の責任もなき国である」と付記した。清沢の日記中には、今日とまったく変わらない日本人の姿がある。
責任と権限のあいまいなまま戦争が始まり、最後まで明瞭になることなく、天皇の御聖断によって戦争は終わった。戦争を推し進めた指導者は、だれも責任を負って戦争をやめようとはしなかった。
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