村木:ニューヨークで東京ガスといっても、Who knows? ですね。東京ガスなど誰も知らないわけです。だから会社名より、自分が個人としてきちんと発言して、議論しないといけない。自分が相手にとって魅力ある人間であることを見せられるだけのキャパシティを持つこと、そして、相手を見極めるときはポストではなく人間を見る。そういう感覚が身に付きました。
三宅:そういうことがあったのですか。今の村木さんの動き方そのものですね。
転機となったバブル時代のニューヨーク
村木:1年では物足りない、もう少しいたら英語もうまくなるのに、と思っていましたが、研修後は日本に戻り、今度はLNGの受け入れを本社で管理する立場になりました。入社14年目、36歳ぐらいの話です。根岸工場にいたときも受け入れをやっていましたが、本社では、商社、石油のメジャー、船会社などと付き合う機会が増えました。英語を勉強してきたからと、国際会議に出席する機会もありました。そうこうするうちに、3年ほどして、ニューヨーク事務所の副所長のポストがあるから行かないか、という話があり、1989年から5年間、家族を連れてニューヨークに駐在しました。
三宅:それはいいですね。入社して17年、40歳前ぐらいでしょうか。日本はちょうどバブルの時代ですね。
村木:そう、僕にとっては、これは非常に大きな転機でした。振り返ってみると、最初の研究所では、仕事はうまくいかなかったけれども、チームワークをどう作っていくかを勉強した。次に外との接点を持つ機会を得て、言葉が大事だということを経験する場面に放り込まれ、そんな中でチャンスがあってアメリカ駐在をすることになったわけですが、アメリカでは、言葉に加えて個人の魅力がないとコミュニケーションがとれない、といった仕事のやり方を学びました。このニューヨーク時代は、バブルを背景に日本からいくつものミッションがやってきて、その受け入れをやりました。さまざまな業界の人、有識者など、日本ではなかなか会えない人たちを接待しましたね。海外にいるから、日本にいるときより、みんな心を開いてオープンになるのですよ。食事をしながら、いろいろ面白い話が聞けました。
三宅:なんと、意外な効能ですね。
村木:帰国してからわかったのですが、僕はニューヨークから役立ちそうな情報をレポートにまとめていろんな先に送っていたのです。でも、東京に戻ったとき、レポートを褒めてくれる人はひとりもいなくて、あのときは世話になったねえ、ミュージカルがよかった、食事もよかった、あの眺めが最高だった、なんていう話ばかりでね(笑)。
三宅:ある意味、本質かもしれません……。村木さんは海外の人も含めて、お友達がすごく多いですよね。一人ひとりと丁寧にお話をされているのを見ていると、人との接点をとても大事にされているのだなと思います。それに、省庁でも、トップマネジメントの方だけではなく、係長クラスまでご存じと伺いました。今もご自身で直接訪問して、若い方にもごあいさつなさるそうですね。
村木:「一期一会」という言葉が好きなのです。一生に一度だけの出会いである、という意味のお茶の言葉です。最初に出会ったときの印象が、その後に生きてくる。だから、出会いは大事だといつも思っています。
三宅:信じていただけるかどうかわかりませんが、エネルギー業界、省庁、マスコミの人からも、東京ガスに限らずエネルギーで新しいことを始めるなら、村木さんと話ができないとだめだ。逆に村木さんと話ができればビジネスができる、というお話を聞くことがありますよ。
村木:信じていいなら、とてもありがたい話ですね(笑)。
三宅:後編では、新しいビジネスをプロデュースしたお話を伺いたいと思います。
(構成:仲宇佐ゆり、撮影:今井康一)
※続きは8月13日(水)に掲載します。
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