村木:あるとき僕は学校でいたずらをして、校長室に呼び出されてえらい怒られたのですが、それを塾の先生にチクるやつがいたんですね。そのせいで、僕は前の方の席だったのに、いちばん後ろの席にされちゃったというようなこともありました。それほどまでに厳しかった……。1960年から1962年頃の話です。
三宅:白金小学校には、村木さん以外でも、地方から来ている人がいたのですか?
村木:いや、さすがにいなかったようです(笑)。もちろん越境入学はいましたけど。私は、年に2回ぐらいは九州に帰っていましたが、そんな面倒なことになっているやつはいなかったと思います(笑)。
何となく、サラリーマンになると思っていた
三宅:中学は東京教育大学付属駒場中学(現在の筑波大学付属駒場中学校)に進まれたのですね。中高一貫ですが、この6年間はどんな感じでしたか?
村木:テニス、サッカー、高校からは水泳をやっていました。正直、まじめな学生ではなかったですね。駒場で東大の近くだから雀荘がたくさんあって、仲間としょっちゅうそこに通ってました。高校を卒業して東大に入って、意気揚々とその雀荘に行き、「おばちゃん、また来たよ」と言ったら、「あなた卒業したんでしょ。こんなところで何やってるの?」「そこの大学(つまり東大)に入ったよ」と言ったら、「そんなわけないでしょう!」と驚かれて、しまいには「あなた運がよかったわね~」と言われました(笑)。
三宅:面白すぎますね(笑)。こんなしょっちゅう雀荘に来ているやつがまさか東大とは、冗談にしか聞こえなかったのでしょう。おばちゃんのほうが普通ですよ。
村木:そうですよね(笑)。大学では、理科Ⅰ類に進みました。いわゆる工学部で、応用化学を専門に選びました。ところが、僕が入った1968年は大学紛争があった年で、6月から半年間、大学が休みになってしまったのです。結果的に水泳部の活動に専念することになりました。
三宅:体育会の水泳部ですか?
村木:そうです。だからクラスメートとは全然会わなくなって、いつも水泳部の連中と一緒にいました。それで授業が再開しても、なかなか足が向かなくて……。
三宅:それは大学紛争とは関係ないでしょう(笑)。ま、大学紛争の影響がそんなところにも出てしまったということにしましょうか(笑)。
さてその頃の村木さん、将来は何になりたいと思っていましたか?
村木:特に考えていませんでしたね。うちはサラリーマン家庭だから、何となく「サラリーマンになるんだろうな」と思っていました。そもそも応用化学を選んだ理由のひとつは、当時は、国語より数学が好きで、英語は嫌いだったこと。
三宅:何となくサラリーマンでしたか(笑)。意外ですね。しかも、今は英語でお仕事をしているのに英語嫌いだったとは。
村木:そうなんですよ、意外でしょう(笑)。よく言われます。ほかには、理工系のほうが就職しやすいのかな、という考えもあったし、1+1が2になるような、きちんとした世界はあまり好きではなかった。それで1+1が2にならない、いい加減な化学を専攻したのです(笑)。とはいっても、それ以上は勉強したくなかったので、大学院には行きませんでした。化学の専門を生かす会社に行くつもりもなくて、大学の水泳部の面倒を見ようと思っていたのです。
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