三宅:水泳部はキャプテンだったのですか?
村木:水泳部には競泳と水球があって、僕は両方やっていましたが、水球のほうのキャプテンでした。だからというと怒られちゃいそうですが、たまたま東京ガスを受ける友人がいたのがきっかけで、東京ガスなら東京にいられるから(水泳部の面倒が見られるので)ちょうどいいと、学科推薦をもらって入社しました(笑)。
その頃の東京ガスでは、化学系の学生をたくさん採用していたのです。なぜなら、現在のようなLNG(Liquefied Natural Gas 液化天然ガス)だと化学反応の知識はほとんど必要ありませんが、当時は石油や石炭からガスを作っていたので、化学系が主流だったのですね。僕は現場のほうに興味があったから、入社のときには「研究所以外ならどこでもいい」と言っていたんだけど、意外なことに研究所に配属になって、結局、研究所に9年間いました。
英語嫌いなのに米国研修へ
三宅:9年は長いですね。どんな研究をされていたのですか?
村木:原油から天然ガスのようなガスを作る、SNG(Substitute Natural Gas)のプロセスの開発です。当時は石油から作ったガスが主流でした。もちろんアラスカやブルネイからLNGが入ってきて、今後は天然ガスに転換していくという時代でしたが、LNGが潤沢に入ってくるかどうかわからなかったので、石油ではなく原油から直接、天然ガスと同等のものを作る研究をしていたわけです。
三宅:なるほど。何人ぐらいの研究チームですか?
村木:工場の中にパイロットプラントを作って、20人ぐらいの組織で動かしていました。動かし始めるとシフトで夜勤もするのです。20人が独立したチームになっていたので、いかにチーム作りをするかも、自分の大事な仕事でした。大学の水泳部の延長のようなところもありましたね。そういうのは好きだったから、レクリエーションをしたり、飲み会を開いたりしました。
三宅:盛り上げ役は村木さんの得意技ですね。
村木:ところが、その9年の間にいろいろな国でLNGの開発が進んできて、もうLNGで全部調達できる見込みがたったので、研究の成果が上がらないまま、プロジェクトが終了してしまいました。それで僕は、横浜市の根岸工場にあるLNGターミナルに異動になったのです。
三宅:そこでは、どんな仕事を担当したのですか?
村木:アラスカなどから入ってくるLNGの受け入れ基地のオペレーションです。これが自身の大きな転機になりました。というのも、LNGターミナルには外国船が入ってきますから、やり取りは英語です。ところが、こちらは英語ができないから通訳が入る。仕事でトラブルが起きたとき、通訳を介してやり取りしていると、もどかしくなってきたのです。
アラスカから来ているアメリカ人、シェルのイギリス人、船員にはイタリア人をはじめ、いろいろな国の人がいました。石油会社はシェルとフィリップスの人が多かったかな。研究所のときと違って、商社など外部の人との付き合いが増え、外の人と話をすると刺激があるなと思い、このとき、英語を勉強したほうがいいなと思い始めたのです。
三宅:でも、先ほどの話だと、英語は嫌いだったのですよね。
村木:そうです。「東京のドメスティックな会社に入ったんだから、英語は必要ない」と思っていたのです。でも、たまたまアメリカのガス会社での研修制度がスタートすることなり、私が候補に挙がりました。ちょうどいい機会だと思い、上司に「おまえ、英語は大丈夫か?」と聞かれたとき、大丈夫じゃないけど「大丈夫です!」と答えて、研修に行けることになりました(笑)。
三宅:大丈夫と言い切ったのですね(笑)。
村木:まあ、しょうがないよね(笑)。それで1年弱、単身アメリカに住んで、それなりに英語ができるようになりました。アメリカに行ってみて思ったのは、自分というものをしっかり持っていないといけないということでした。日本の社会では組織の一員の立場で人と付き合うことが多いのですが、アメリカでは個人の魅力で付き合うことが大事です。
三宅:なるほど、確かにそうかもしれませんね。
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