※前編「『新しい仕事を創り出す仕事』のススメ」はこちら
発電事業から学んだこと
三宅:玉井さんは昭和シェル石油からオランダのロイヤル・ダッチ・シェルの本部に出向し、1997年に帰国しましたが、帰国後はどんな仕事が待っていたのですか?
玉井:供給部で製油所をモデル化する仕事をしていました。つまり、Aという原油を入れたらこういう製品がこれだけできます、Bという原油を投入したらこうなります、という製造側の事情と、この製品を売りたいという販売側の事情を組み合わせて、どういう原油を入れたらいちばん安いコストで製品を供給できるかを考える仕事です。
それまでやっていたユーティリティの仕事では、電気と蒸気の需要量と製造方法から、いちばん安くできる仕組みを考えていましたから、基本的には同じことでした。
三宅:引き続き「プロセスの改革と結晶化」に取り組んでいたわけですね。その後、どういうきっかけで発電事業を手掛けることになったのでしょうか。
玉井:東京ガスとシェル・ガスから「横浜市の扇島に発電所を造りたいから、東京ガスと昭和シェル石油の土地を一部提供してほしい」という話があったというのがきっかけです。とはいえ、そこには30万キロリットルの原油のタンクがありました。原油船が1回入ると30万キロリットルの原油が運ばれて来て、ここのタンクに荷を降ろして、ここから小分けして製油所に送っていました。それで、油の流れがわかっている供給部がこの話を検討しろと、課長の私が担当になったのです。
三宅:普通に考えると、30万キロリットルのタンクをなくしてしまったら、オペレーションはできなくなってしまいそうですが……。
玉井:近くに同規模の受け入れ基地があるので不可能ではないと考えましたが、当時はいろいろな部門から、それではオペレーションできないとか、船が遅れたときに在庫が足りなくなったらどうするんだ、機会損失するじゃないか、などと反対されました。でも、「将来、製油所を閉鎖するとすれば、この土地を処分するのは難しい。だったら、どうしても使いたいと言う人がいるうちに提供するほうがいいだろう」と判断しました。
三宅:組み方の戦略的な絵を描いたのは玉井さんご自身ですか?
玉井:そうです。前回お話したように、私自身がガスタービンを用いた発電など、それまでに石油会社の中でも電力関係の仕事をしていたので興味がありましたし、「この土地だったら明け渡しても、将来、後悔はしない。石油製品の需要が将来、減少することを考えると、むしろ当社も一歩先に進んだほうがいい」と直感していました。そしてわれわれも発電事業プロジェクトチームを立ち上げて前に進めることにしたのです。以降、私は一度も電力ビジネスから離れることなく今に至っています(笑)。
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