「これは感染の拡大がはじまった最初のころから思ったことですが、感染症という病気そのものを見ているうちは、対策にしても取り扱いにしても、ウイルスはこうだとか治療法も含めて、あくまで病気の話をしていればよかった。
それが拡大してくると、人間の生活にものすごく影響を与える。感染症を治せばいいだけの話ではない。例えば、学校の休みを1つとっても、子どもたちへの影響は病気だけでなく発育・発達そして教育ということにも関わってくる。経済的な影響も関わってくるし、それだけでなく、まさに政治、それも国際政治といろんな背景的な要素が関わってくる。
だから、僕は『感染症の病(やまい)』ではなく、もはや新型コロナウイルスは『社会の病』だと言っている。それだけ非常に複雑になっている。
それこそ最初は感染症の専門家としてさまざまな会議に提言もしていたけれど、次第に医学医療としての処方箋を出すだけでなく、経済学の処方箋、社会学の処方箋であるとか、多方面の処方箋をまとめるべきだと話した。まさに政治、経済が絡んでくる。感染症の域を超えた『病』になった。そういうところが、解決に向けて非常に厄介になっている。
それも1つの地域だけの問題ではない。一国、二国のことだけでもなくなった。世界的な問題点が出てくる。その一方で、背景事情は国や地域によっても、また違う面が出てくるから、余計に厄介になってくる」
厄介――。一言で済ませるのは簡単だが、そこに潜む複雑性が感染症の専門家としての頭を悩ませる。その厄介な状況から1年半が経過して、1年先送りとなった東京オリンピックがやってくる。そのことを率直にどう思っているのか。
「それは、感染症だけを見ていれば余計なものですよね、結局」
岡部ははっきりと言った。オリンピックは「余計なもの」。「厄介」なところに「余計なもの」だったら普通は避ける。政府の分科会の尾身会長が国会でオリンピックを「今の状況で、普通はない」と語ったこととも重なる。そのうえで、こう続ける。
「感染症を少なくしようとするときに、余計な要素など、ないに越したことはない。簡単な話です。でも、現実は“やる”という以上は、感染症のリスクはできるだけ減らさなくてはいけない。そういう大きな課題がでてきた」
人と人の接触を絶ったら社会を維持できない
最初に断っておくが、オリンピックをやる、やらない、の判断は岡部の範疇にはない。感染症の専門家として、岡部に突き付けられているのは“やる”ことを前提として感染リスクを減らすことだ。
「でも、それはほかのものも共通で、感染症は人から人へうつるわけだから、感染症を防ぐ、あるいは広げないためには、人と人との接触を絶っちゃえば感染は抑えられる。楽な方法ですよね。
ですが、それを完璧にやったら社会を維持できなくなる。人は、仕事はするし、遊びもするし、当然、日常の生活があるわけだから、そのためには人が動かないなんて、ありえない。だから、つねにそこの妥協点でやっていかなきゃならない。どこにその妥協点を見出すか、そこがもう1つ厄介なところでもある。
そういう点で、余計なものはないほうがいいというなら、オリンピックだってJリーグだって、娯楽のイベントであるとか、いっさいないほうがいいんですよね。
でも、人の社会は『楽しみ』の部分も当然必要で、そういうことをやるためにはどういう注意をしていくのか、できるだけ広がらないようにして、その犠牲をなるだけ少なくする努力が必要となる。
どんな困難なときであっても、人は楽しみを求めるわけだし、オリンピックをやめる理由はこれまで戦争か国際的紛争しかなかった。そこに病気は入っていない。その中でどういう状況でどのようにできるか、計画を立てていく。
東京オリンピックはやるという姿勢が決まったわけだし、余計なことはやらないほうがいいけれども、単純に感染症のことだけ考えれば済む話でもない。国内の問題もあるし、もちろん国民感情も考慮しなければならないし、一方で国際的なコミットメントもあるわけですよね。
そういう全部をひっくるめた結果としてやるとなった以上は、引きずり下ろすというのはできないから、われわれ専門家に課せられているのは、できるだけリスクを減らすためには感染症の見地からどういうことを考えるか、どういうことを提言するか、となったわけです」
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