2013年がんで逝った男がネットに刻み付けた言葉 没後8年、永久保存を望んだサイトは3年で消えた

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当初、小田和さんはとにかく人気サイトを目指して活動している様子だった。積極的にコラムを追加し、2ちゃんねるで宣伝スレッドを立てたりもした。ホームページのノウハウ本やテキストサイト大手からの知識も積極的に取り込む一方で、アフィリエイトには関心がなく、純粋に趣味として自分のサイトの人気を高めたい意欲が目立つ。

<個人サイトの運営というのは、大多数の人にとっては、多分自己満足の世界でしょう。
それでも熱心にサイトをやっていると、余り外に出かけなくなるので、お金も使いません。
あれほどパチンコ好きだった私が、まったくパチンコに興味をなくしました。
今ではサイトに力を注いではいますが、サイトを始めて半年ぐらいはいつも、このまま投げ出しちゃおうと思っていました。
「継続は力なり」です。>
(2004年7月4日 掲示板の投稿から)

いろいろな情報を参考に初期はページ構成を何度も変えていた。コラムの幅も情報収集するうちに広がり、幼児虐待や医療事故などを語る社会派なコーナーも並ぶようになった。掲示板には賛否の声が届くようになり、対応に苦労するさまが残っている。そうこうしているうちに1年が過ぎ、コラム本数は100を超えた。

万事順調とはいかないまでも、ひたむきな努力のかいあってアクセス数は着実に伸びていく。開設から半年は50件程度だった日間のユニークアクセス数は、2年経った頃に1500~2000件程度となり、さらに1年後には3000件弱まで急伸する。

きっかけは「女子アナの出身高校」と「女子アナの知っ得情報」という女子アナ関連のコラムだったという。反応のいいネタの比重は自然と高まっていき、2007年にはサイトのタイトルを「女子アナデータベース」に変えた。その頃には個人サイトの一種のステータスといえたYahoo! Japanのカテゴリ登録サイトにもなっている。のちに「Googleディレクトリー」にも登録されるなど、目指していた人気のサイトの一端を担った感がある。

2007年には小田和朗名義の電子ブックも刊行した。Windows 10では表示不可。

当時の掲示板をのぞくと読者からの反応はそれなりに多く、小田和さんも積極的に交流している様子だ。少なくともこの頃は孤独な雰囲気はなかった。

双方向性をなくす方向に舵を切る

読者との双方向感はここから数年の間に薄くなっていく。

テキストサイトからの脱却の過程で掲示板をなくし、アナウンサー系以外のコラムはばっさりと整理した。社会派ネタは「小田和 朗データベース」という別のサイトを立てて引っ越し、本サイトには「営業者の社名ロゴはどうして右書き?」や「海外温水洗浄便座事情」などそれなりにアクセスのあるものだけを残した。

それでも更新ペースは衰えず、両サイトに淡々と情報を追加していく。しかし、「小田和 朗データベース」は少なくとも2010年までには閉じている。

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