9時頃、医師も外来や病棟に出て自主的に対応するようになる。当日救急当番だった外科医がリーダーとなり治療方針の統一を試みた。患者は救急室だけではなく外来の長椅子や病棟の空きベッドにも散在し主治医もない状況だったからだ。瞳孔が小さくなっているからすぐ判る。「今までの経験では説明できない何か大変なことが起こっている」と感じた当直責任医師は、躊躇なく法医学教授に助言を求めた。最初の患者が来院してから約1時間後のことである。
教授は直ちに救急室で患者を診察し「農薬やサリンなどの有機リン中毒の症状と一致します。解毒剤はPAM(ヨウ化プラリドキシム)です」と速やかに判断。その場で病院内薬局に問い合わせるとPAMは2アンプルのみ。
すぐさま全ての問屋からPAMを大量に取り寄せるよう指示が飛ぶ。そして、病院内薬局にあった2アンプルは意識障害と血圧低下の最重症者に即刻投与。まもなくPAMも大量に届き、PAMとアトロピンを用いた治療方針を記した用紙が各部署に配られた。
2000人以上を受け入れた慈恵医大で死者はゼロ
患者の数は増える一方だった。院長を対策本部長としてトリアージドクターを配し、緊急性の少ない縮瞳だけの患者は中庭の臨床講堂に運び込まれた。しかし、当時「除染」の知識をもつ医師はまだ居なかった。
一方、被害者を受け入れた慈恵以外の病院では11時頃の警察の正式発表をTVで見てサリン中毒と知った。PAMを関西などから取り寄せ、その投与は午後になった。的確な判断に基づき速やかに初動をきれた慈恵医大は2000人以上のサリン被害者を受けたにもかかわらず、院内で1人も死者を出さなかった。しかし、慈恵医大の取り組みが世に知られることはなかった。被害者のプライバシーを重視し、報道陣をシャットアウトしたからだ。
ハーバード大学のクラスでは「ボストンのショッピングモールで炭疽菌が撒かれたときの最悪のシナリオと最良のシナリオを書いてくる」という宿題が出されたこともある。当時大学院生だった私は「大げさな。まさかそんなことは起こらないだろう。ちょっと心配しすぎなんじゃないだろうか?」と感じた。2000年のことだ。
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