明治の偉人が「野球害毒」叫んだうなずける背景 新渡戸稲造らが批判、「ゲーム脳」と繋がる論調
そんななか、当時国内唯一の全国紙であった東京朝日新聞社は、大阪で急激に発行部数を増やす新聞社がついに東京へ進出するという噂を耳にします。そして1911年、大阪毎日新聞は東京日日新聞を買収し、国内2番目の全国紙へと躍り出ます。
ちなみに、東京朝日新聞が「野球と其害毒」を連載したのは、東京日日新聞の買収と同じ年です。これは、大阪の脅威に対抗するために、当時良くも悪くも衆目を集めていた「野球」を記事として利用したのではないか、という見方もあります。
しかし、すでに圧倒的な人気を誇る野球の批判記事を好んで読もうという人は少なく、「野球擁護論者」たちに完全にやり込められてしまう形となりました。
一方、大阪に拠点を置く大阪朝日新聞は、東京での連載終了後に、野球の好意的な記事を徐々に増やしていきました。そして4年後の1915年、「国内野球を正しい方向へ導くため」として、全国中等学校野球大会を主催するに至ったのです。
当時の大阪朝日新聞社説には次のようにあります。
現在のさわやかなイメージは害毒論へのアンチテーゼ
理性や感情が入り乱れる野球批判の論調を見ると、2000年代に話題となった「ゲーム脳」などといった各種「害毒論」が思い出されます。
野球にしろ、ゲームにしろ、世の中に突然現れたものは、人々への影響力が強ければ強いほど「善い・悪い」だけでなく、「快・不快」の議論にも晒されるのはまた面白い側面でもあります。
現在の高校野球にある「さわやかな」イメージも、もとをたどれば「害毒論」に対するアンチテーゼとして大阪朝日新聞が作り上げたものです。そう考えれば、そもそも「害毒論」がなければ、現在の野球はもっとアングラなスポーツになっていたかもしれません。
対論が存在するというのは、その題材をさらなる高みへ導くための大切な要素であると言えるでしょう。
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