「かぐや姫」のラストシーンに隠された深い意味 お茶目な筆者が竹取物語の最後に仕掛けた遊び

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『竹取物語』のフィナーレは一見、以前にもあった地名起源譚を彷彿させるスタイルになっているものの、その内容は完全にでたらめだ。しかし、語源の信ぴょう性はどの読者でも判断ができたはずなので、作者は騙す目的でそれを選んでいるのではなく、嘘であることを自覚した上で書いている。虚構性こそが「物語」の醍醐味だということを教えたかったのだろう。

しかも、その語源は嘘ばかりではなく、さまざまな意味を持つと考えられ、物語の可能性をさらに広げているものでもある。文中に紹介されている「士に富む山」という説以外、煙が絶えず立ち上る、つまり「不尽」という意味にもかかっていると指摘されている。

その2つのインチキな語源から得られるイメージを組み合わせてみると、山頂から上っていく煙は実を結ばなかった切なくて、儚(はかな)い恋を象徴していると同時に、多くの兵士を動員してもかぐや姫を引きとめることができず、水の泡になってしまったその努力の滑稽さを表している。心の琴線に触れる、絶望的な悲しさと笑いを誘う洒落、「不尽/富士」という同音異義語による言葉遊びにはその両方の意味が隠されているわけである。

「富士山」という言葉が物語の解釈を豊かにする

従来の地名起源譚の中でも、信ぴょう性に乏しい、かなりぶっ飛んだ話が散見されるが、それらの作品と『竹取物語』とは2つの決定的な違いがある。

まず、地名起源譚や風土記の編集に携わった著者たちは、どんな変な話だろうと、それは事実だと信じて疑わなかった。そして、真実を伝えているという前提になっているが故に、地名とその語源は必ず一対一で結びついている。しかし、「富士山」の話は違う。その言葉からさまざまな意味が生まれ、その1つひとつは物語の違う解釈に私たちを誘導する。

ここまでくると、「富士山」の本当の語源はなんだろうと調べたくなるかもしれない。しかし、私はやはり『竹取物語』の作者がでっち上げてくれたもので満足している。不老不死の薬を手に入れる可能性を失った人間の運命、愛を返してくれない人を想う悲しさ、意味もなく働き回る毎日、そのようなことを考えて想像をめぐらし、熱々のカフェラテを啜りながら、富士山が見えるかなとワクワクして今日の朝も歩いている。

イザベラ・ディオニシオ 翻訳家

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Isabella Dionisio

イタリア出身。大学時代より日本文学に親しみ、2005年に来日。お茶の水女子大学大学院修士課程(比較社会文化学日本語日本文学コース)を修了後、イタリア語・英語翻訳者および翻訳コーディネーターとして活躍中。趣味はごろごろしながら本を読むこと、サルサを踊ること。近著に『悩んでもがいて、作家になった彼女たち』。

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